gankutu91
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 3.15
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)
史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
九十一、正直者か
話にだけ聞いていた鬼小僧が、今目の前に現れて、しかもあの怪しむべき巌窟の主人と会合するとは、実に思いもかけないことだ。もっとも巌窟の主人、船乗り新八が鬼小僧を救ったことも前に聞いた。その外にこの人が、道楽《趣味》のように様々な罪人を助ける事も又聞いている。今までそれらはただ人の噂に止まる事とだけ思っていたが、今面前でこの会合を見ては、噂だけでは無いと分かる。
安雄は全く息を殺し、二人の言葉に耳を傾けていた。鬼小僧はなおも詫びのように、「伯爵、もっと早く来るべきでしたが、別甫に会うのが手間取りまして。」何のために伯爵と言うのかは分からないけれど、伯爵と呼ばれて別に自ら怪しみもせず、当然の尊称を受けるような語調で、「別甫とは誰だ。」と聞き返した。
この声でいよいよこの伯爵が巌窟の主人と同人らしく思われる。鬼小僧は、「アノ私の手下日比野が捕らわれている牢屋へ政府から付けてある牢番です。」
伯爵;「フム、政府の牢番と親密にするなどとは、そちも中々好く手を回していると見えるな。」
鬼小僧;「ハイ、牢番と親密にしておくことは何より大事ですよ。何時私自身が捕らわれないとも限りません。ライオンが網にかかったのを、ねずみがその結び目を食い破ったという話もあるではないですか。私もいつか必ず別甫のような小ねずみにに網の結び目を噛んで貰いたい時が来るでしょう。」
暗に自分をライオンに比べるのは流石に山賊の巨魁である。
伯爵;「別甫に会って、それから如何した。」
鬼小僧;「いよいよ日比野が助からない事を聞きました。明後日の午後二時、カーニバルの祭りが始まる前に、血祭りとして死刑に処せられるものが二人有ります。伯爵、その一人が日比野ですよ。」
伯爵は更に驚く様子も無く、「そうして今一人は、矢張りその方の手下なのか。」
鬼小僧;「イイエ、これはどこかの寺の使用人だそうですが、非常な悪人です。自分が捨て子であって、寺の長老に拾い上げられ、まるで子のように育て上げられたのに、その恩を忘れて、少しの事からその長老を叩き殺したというのです。それだからこやつは死刑のうちでも最も重い寸断の刑に処せられるのです。」
寸断の刑と聞いて安雄は思わず身を震わせた。寸断といえば、なぶり殺しである。今もって、イタリアにこの刑があることは知っているが、その実行せられたのを聞いた事は無い。
伯爵;「成る程、それはひどい悪人だ。親同様の恩人、しかも僧侶、を殺すとは寸断が適当だろう。日比野もその様な悪人ではないのか。」
鬼小僧は、言葉に力を込め、
「どうして、日比野は、大胆な男ではありますが、人を殺したことは無いのです。それだから単に首を切られるだけで寸断の刑ではないのです。けれど、伯爵、寸断ではないにしろ、命をとられることは同じです。日比野のような者の命をとるとは、あんまりひどすぎます。どうしても私は彼を助けます。」
伯爵は少し考えて、「どうして助ける。」
鬼小僧;「手下の乱暴な奴を二十人ほど集め、短剣を抜き揃えて死刑の場所に躍りこみ、役人を殺して置いて日比野をさらって逃げるのです。このようなことをすれば幾ら意気地の無い政府でも、厳しく私共を追い詰めるに決まっていますから、その時は又どうか貴方の船へ匿って頂きたいと、それで今夜はそのお願いにご面会を願ったのです。」
伯爵は一も二も無く、「それはいけない。死刑を行う役人はただ職を守るというだけだから、それを殺すという乱暴な企てには、俺は協力することは出来ない。良く貴様は心得ていてくれ。この船乗り新八は、人を助ける計画には協力するが、殺すべき人でない者を殺すような計画には決して力は貸さないのだから。」
断然と言い切った。安雄はこれを聞いて少し感心した。この人は道楽《趣味》に罪人を助けるのではなく、助けるべき人と、助けるべきでない人との間に多少は差別を立てていることがわかる。それに自分でこの船乗り新八というところをみれば、この人があの巌窟の主人である事は最早一点の疑いも無いのだ。それが伯爵といわれるのは、アアこの山賊らが恩に感じる余り勝手に付けた尊称だろう。
鬼小僧はしばし当惑の様子であったが、「でも私は手下を見殺しにすることは決して出来ません。」
伯爵;「ナニ、見殺しにするには及ばない。いよいよ助けるべき奴ならば、俺が助けてやる。」
と、全く生殺与奪の権うを自分の随意にする事ができるかの様な語調である。そうして更に、「どれ、日比野という奴は、普段どの様な仕事をしている。一応俺に話してみろ。」
鬼小僧;「正直な男ですから、普段私が山塞(さんさい)《隠れ家》の門番をさせたり、大切な使いなどに出すのです。腕力の強い手下は幾らも有りますが、腕力の上に心の正直を兼ねた手下は簡単には得られません。」
正直との一語は伯爵の心を決せしめた。
「フム、正直者か。では俺が助けてやる。」
鬼小僧;「貴方が請合って下されば、、もう助かったも同じ事です。今からお礼を申して置きます。ですが、伯爵、既に死刑とまで決まった者を、どのようにして貴方は助けますか。」
関心に我慢が出来ないと言うような声で聞き返した。
第九十一終わり
次(九十二)へ
a:1201 t:1 y:2