gankutu95
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 3.20
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
九十五、「意の如(ごとく)くする積りです」
この伯爵の、何から何まで行き届くのには、ただ恐れ入るほかは無い。安雄と武之助を死刑見物に誘っただけでなく、更に二人に向かって、姿を変えて祭礼に出るならば、色々な衣装も借り整いてあるので、気に入った物を選んで着てくださいと言い、次には食堂に案内して、朝食を饗応し、又次には喫茶室にも伴った。
その誘いが一々断るにも断りきれないように、真実本心から出てくるのだ。特に朝食の料理といい、その後の煙草と言い、どうしてこうも豪華な品ばかりを取り揃える事ができたかと怪しまれるばかりだから、パリーを出て以来、料理の好くないのに困っていた武之助にとっては非常にありがたく思われた。
食事の間に安雄は、寸断の刑と言うのが余りに残酷ではないかと言い出した。伯爵は異様に熱心さを表して、「イイエ、残酷か残酷でないかは、刑に有るのではなく、人にあるのです。例えば、わずかに一年の懲役でも之を罪の無い者に課せば非常に残酷です。寸断の刑でも非常な悪人に課せばまだ軽過ぎるかも知れません。」
安雄;「でも、人の命を取るのが刑罰の頂上です。命をとる上に、更に寸断と言うような嬲殺(なぶりごろし)同様の事をするとは。」
伯爵は妙に眼を光らせて、「けれど、人生には命を取られるよりも上に、まだどれほど辛い事があるか知れません。私などはーーー」と言いかけたがたちまち言い直して、「私などの意見によれば、首切り台で一思いに殺されるのは、この世に飽きた人に取ってはほとんど慈悲だと思います。人間はどうせ一度は死ぬのですもの。苦痛も無く殺されるなら、如何とでも諦めようがあるのです。これに反して、世の中には何んと諦めても、諦めが付かない程の苦痛が有ります。このような苦痛を人に与えた者には、決してただの死刑では足りません。死刑より数倍も辛い責め苦を加えてやら無ければ。」
武之助;「詰まり貴方の主義は、復讐主義ですか。」
伯爵は又異様に武之助の顔を見て、「そうです。そうです。復讐主義です。目には目を報いよ。歯には歯を報いよです。」
これより伯爵は自分の見た各国の刑罰などを話始めたが、話に実が入ったためか、皿の一品も口には入れない。安雄は先の夜、あの巌窟の中の晩餐でも、この人が何一つをも口にしなかった事を思い出し、何か訳があることではないかと怪しんだ。
しかし伯爵は、あたかも一緒に食べているかのように、ナイフとフォークとを持って、皿の肉を散々に切り刻んでいる。肉に向かって自ら寸断の刑を施しているのだ。
もう一つ、この食事中に安雄が気が付いたのは、この伯爵が呼び鈴を鳴らすのに、一度一度、その数と鳴らし方の違う事である。そうして、その数に応じ又音に応じて、先の夜に見たあの黒人給仕がそれぞれ違った品物を持ってくる。確かに鳴らし方が色々な符牒になっているのだ。
安雄は感心して、「伯爵、あなたの身には、私共の羨ましい事ばかりですが、中でもっとも羨ましいのは、真に召使のものが貴方の意の通りに勤めて行く一事ですと。出来る事なら私共も、この様に給仕されたいと思います。」
伯爵は微笑して、「自分の召使さえ、自分の意の如くに動かす事が出来なければ、とても世間の事を意の如く動かして行くことは出来ないと言うのが私の確信です。」
武之助も感心したように、「真にあなたは世間のことを意のままに動かして行くのでしょうね。」
伯爵は重々しい言葉で、「ハイ、意の如くするつもりです。」
食事の後で伯爵は又呼び鈴を異様に押し鳴らした。今度は家扶《貴族の家の使用人》とも思われる五十近い男が現れた。伯爵は之に向かい、「春田路さん、衣装も馬車も、ロスポリ館の窓も、指示通りにして有りますか。」春田路とは奇妙な姓であると、武之助は感じた。安雄の方は、姓よりも、何だかこの男が、先の夜、自分に目を隠させて巌窟の中まで手を取って案内した人では無いかと感じた。
春田路はただ伯爵の問いに対して、「ハイ」とだけ答えて、目礼して退いた。
いよいよ三人、刑場へ向けてここを出た。その道で、馬車がロスポリ館の前を通ったから、安雄は密かにその窓を見上げると、、三つのうちの真ん中に赤い十字架の付いた垂れ幕が垂れている。さては、この伯爵が鬼小僧への約束通り、日比野を救い出す事が出来たと見える。こう思って伯爵に向かい、「今日の死刑は確かに二人ですね。と聞いてみた。伯爵は極めて平気に「昨夜に、法王の朝廷のものから聞きましたが、そのうちの一人は許されるような話です。」いよいよ伯爵の勢力は驚くべきものである。
第九十五終わり
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