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白髪鬼
マリー・コレリ 著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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(七十三)
私の手をハピョの手と同じと言ってナイナが気絶するのも無理はない。私の手は実際ハピョの手だからだ。
そうは言っても私は気絶したナイナの処置に困り、その体をそばの椅子に寄せかけて置き、あわただしくベルを鳴らすと、親切そうな老修道女が来て、ナイナの顔を冷水で拭うなどして介抱の手を尽くすと、その間に私は手袋をはめてハピョの手を隠し、その背をさすりながら「ナイナ、ナイナ」と呼び返すと、元々健康な体なので、間もなく目を開き、
「ああ、本当にハピョが現れたかと思いました。」と口の中でつぶやいた。悪婦とは言え、心の底のどこかにはハピョに済まないとの思いはあり、時々は気が咎める事があることが分かった。本当に心地がよいことだ。このようにして五分と経たない中にナイナは元の機嫌に戻ったので、私は十分な親切を示して、どう見ても許嫁の夫婦に見えるように、愛深い言葉を与えて、残り惜しそうに別れると、ナイナもまた残り惜しそうに送り別れた。
この夜、私は決めたとおりに従者瓶造を連れてネープル(ナポリ)を立ち、アベリノの地に着いた。
アベリノは読者の知るように、サバト河をまたぎ山を背負い、海に臨む小村で、イタリアの中で最も静かなところなのだ。人の気風は質朴で土地の風景は絶佳と称せられるが、ただ贅沢な別荘、あるいは旅館などがないため、高貴な客が行くことはまれだった。時々詩人や画家がまれに来ることはあるが、これも長く滞在はしないので、私のような繁華を嫌う人間にはこれ以上ない隠れ場と言える。
特に私が泊まった家は海岸にあるが、漁師ではなく、家の周りに果物の畑があり、その果物を売って、ただ一人の娘と一緒に何不自由なく暮らす老女の家で、老女は名をモンタイというが、村中の誰からもただ「おばさん、おばさん」と言われるだけで、名前で呼ばれることのないのは、長年未亡人で過ごし、広く人に敬われるためなのだろう。
私はネープル(ナポリ)の我が宿の主人から紹介されてこの家に来たのだが、老女の様子に何やら気高く奥ゆかしい所があるので、それとなく身の上を聞くと、若かった頃は村中評判の美人で、この家に嫁いだ後も、誘惑しようという馬鹿者が多く、ついにその中の一人は山の上から大石を転がし、果物畑で仕事をしていたこの女の夫を押し殺してしまい、自分の罪を全くの過失だと言い張って、裁判を逃れた上、老女の所に謝りに来て、親切をもって老女に取り入ろうとしたりしたが、老女は我が夫の敵として、非常に辱め、二度と来ることができないようにして帰してからは、烈女と言われ、誰一人敬わない者はおらず、今日まで未亡人を守り通したと言うことだ。
これらの事を話すうちにも、あるいは悲しみ、あるいは怒り、女ながらに侵しがたい所があるので、私はほとほと感心し、ナイナの事に思い比べて、同じ造化の神が作った子にこんなにも違いが有るものかと心の内に嘆息しながら、更に娘のことを聞くと、
「はい、娘リラは」と言い、よく分かるように丁寧に、今まで女手一つで育て上げた苦労を話し出した。その顔には汲み尽くされない慈愛の色があり、私は少しの間でも、このような夫人の家に宿を取ったのを喜び、「これを娘リラへ」と言って少しばかりの土産物を贈った。
こんなわけで、私はただ山に登って海を眺め、朝に夕にこの地の景色を探訪したが、3日目の日は空が曇り雨が降り出しそうに見えたので部屋にこもり読書していたが、読書にも飽き、話し相手がいないかと思っているところに静かに瓶造が入って来たので、私は座らせて世間話を始めると、瓶造は何か考えるところが有るらしく、
「旦那様はリラをご覧になりましたか。」聞いた。
「この家の娘か。名前は聞いたがまだ会っていない。なぜそのようなことを聞くのだ。」瓶造は少し兵役を済ませたばかりで、まだ世辞にも慣れない少年なので、問い返されて恥ずかしそうにその頬を赤くし、「いや、非常に美しい女ですから。」
「美しい女の余り美しいのは、毒虫の美しいのと同じことで、その最も美しいところに毒が有るのだ。昔から英雄豪傑を失敗させる者は皆美人だ。」瓶造は近々に結婚する私の口には不似合いの言葉と見たのか、怪しそうに私を眺め、
「そうでもありましょうが、花の美しいのも、景色の美しいのも、また美人の美しいのも全て同じ事です。毒は見る人の目にあるのです。清い目で眺めれば心までさわやかになるでしょう。」
私はこの格言に感服した。見る人の目にさえ毒がなければナイナのような毒婦でも、自分に溺れないものには毒することはできない。毒は男子の自ら招くところなのだと深く心に感じながら、笑みを浮かべて、
「お前もなかなかの哲学者だ。そう思ってリラを褒めるのは良いが、私のような老人にはそのような若々しい言葉を聞くたびにうらやましくなるばかりだ。」瓶造は急に真面目になり、
「いや、そうおっしゃるほどの老人ではお有りなさいません。」
「なんだと、」
「いや、私は見てはならない所を見たかも知れませんが、あの決闘の時、めがねを外した貴方のお顔を拝見しました。決して老人では有りません。」
「でもこの白髪は、」
「それはお生まれつきでしょう。貴方のお目と言い、頬の辺りの様子と言い、まだ三十才をいくつもお越えではありません。」
三十を越えない身がはや生きている甲斐もない老人となり果てたかと思うと、私は涙が自然とわき出すのを感じた。
「これ、瓶造、人の老いとは年にはよらないのだ。心に春のような陽気を持てば、四十が五十でも若いというもので、私は目は若くても心は頭の白髪と同じく若い人の陽気はなく、とっくに老衰した人だ。」と言い、めがねを外して顔を示すと、瓶造は私の味気ない胸中を察してか、うつむいたまま私の顔を見ることができなかった。
ああ、彼も又私のために泣いてくれるのか。
私は話が陰気になったのに気が付き、すぐに心を取り直して、又笑い、
「しかし、瓶造、一度見たなら何度見るのも同じだ。ただお前が他言さえしなければ。」
「何で私が他言などを」
「私もそう思うからお前には安心している。私は事情があってサングラスを掛けているが、ここに来ればそれには及ばないから、今日からは再びネープル(ナポリ)に帰るまではずしていよう。はずして良くお前のためにリラ嬢の顔を見てやろう。心は老いているが女の人相が鑑定できないほどでもないから、見た上で私の思うままのところをお前に聞かせてやろう。」と言うと、
瓶造は有り難そうに頭をたれ、私の手を取りキスをしたが、なおも私が身のはかなさを思い続けて涙を隠すことができなかったようで、顔をそむけたまま、私の部屋から出て行った。
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