巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame13

         椿説 花あやめ     

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.7.15

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

a:74 t:1 y:0

          十三 殆ど涙の人 

 暫(しば)しがほど、子爵は草村松子の顔に見惚れた。挨拶をさえ忘れて居るかと迄に見えたが、終に辞儀をした。その辞儀たるや、心の底から出たので、何と無く恭(うやうや)しげに見えた。之ほどの辞儀は、春川梅子に向ってはしなかった。

 此の一事でも梅子と松子に対する、子爵の心持の違いが分かる。梅子には尊敬よりも愛らしさを余計に感じたのだ。松子には愛らしさよりも尊敬を余計に感じて居る。

 子爵の辞儀を受けて、松子も辞儀をした。併し無言の辞儀で有った。尤も傍に母である草村夫人が居るから、実は言葉を発するにも及ばない。云うべき事は総て夫人が代言して呉れる。果せる哉だ。夫人は子爵の眼が、松子の顔からその衣服に移る頃だと見て、ここが母子の喪服を仄(ほの)めかせる時期だと思い、

 『イヤ子爵、お目に掛かかったら、何より先にお悔やみを申し上げなければ成らない所でした。先ア何と云う御不幸でしょうねえ。私も松子も、あの悲しい新聞を見て泣き暮らしましたよ。』

 嘘ばかり云って居る。けれど子爵の心は陽気を得た霜の様に解けた。特に母子の軽い喪服に目が着いて、行き届いた注意に感じ、有難いほどに思った。之が若し日頃の子爵ならば、初対面の人がこの様にまで心を用いるのを、却って空々しく感じたかも知れない。

 けれど今の子爵は殆ど涙の人である。少しでも、死んだ二人の息子に同情を表して呉れる人が有ると、唯だ有難い。
 この様な間、松子は自分の母の偽り多い挨拶振りが、気に喰わないのか、少し身を斜にして、椅子に腰掛け、母と子爵の方を見ずに、無言で窓から庭の面を見詰めて居た。

 子爵は此の様子を見て、非常に気高い女だと感じた。世辞の無い者には、必ず実意が有ると前から子爵は思って居る。何うか自分の方へ松子の注意を向けさせ度いと、二言三言その積りで発したけれど、松子は依然として動かない。

 何だか子爵は耐(こら)える事が出来ない様に成り、鉄に引かれる磁石とも云う様に、フラフラと立って、松子の傍に行った。我にもあらずとは此の事だろう。そうして少し震(ふるえ)る声で、

 『貴女は、初めて来た私に、一言好く来たと云っては呉れにのですか。』
 真情を以て人を動かすとは、此の言葉の様なものだろう。松子は顔に紅を潮(さ)した。そうして子爵を見上げた目には、少し露の光が見えた。

 『何う致しまして、本当に私は好くお出で下さったと思っています。』
 子爵は此の言葉が、肝に銘ずる様に思った。そうして
 『イヤ私は、我が家にもう、誰も慰めて呉れる者が無い為に、此の年に成って、知り人や日頃尋ねない縁者などを尋ね、同情の言葉を聞いて歩いて居るのです。』

 云いながら全く涙を流した。松子は深く、自分の余所余所(よそよそ)しかったを恥ぢもし、悔いもする様子で、
 『イヤ何とも言葉には尽きれないほど、お傷(いたわ)しく思います。けれど兄弟お二人が、抱き合って立派に死んだと有りますから、それだけでも、お心強いでは有りませんか。』

 死に様を立派として褒めるのは、確かに貴族の思想である。
 子爵『オオ好く云って下さった。若しも二人が死に際に、見苦しく泣き叫びなどしたなら、私はこうして此方へ出る気力も出なかったでしょう。』

 松子『立派にして死んだ方が、恥ずかしい生活を送るより優っていると思いますよ。』
 母御は傍で聞いて、恥ずかしい生活とは暗に、偽りの多い我が身の事を指すのかと気が廻った。遽(あわただ)しく言葉を挿(はさ)んで、

 『アレ先あ、恥ずかしい性格などと、和女(そなた)はその様な事を知らずに、イヤその様な言葉さえも聞かずに育ったのに。』
 松子は非常に軽く、
 『そうですか。』
と答えたが、軽いだけに却って千金の重さが有った。

 母御は子爵に向かい、
 『此の子はいろいろな本など読むものですから、時々飛んでもない事を言い出しますよ。』
とは他日の予防をも兼ねての言葉だろう。けれど子爵は、此の夫人に、飛んでもな無いと思われる丈け、松子に値打ちが有るのだと思った。

 そうして故(わざ)と話しを転じる為、
 『松子さんのお顔は、蔵戸家一般の形とは少し違いますがーーー。』
 却(かえ)って見優(みまさ)る所が有る様に褒めようとした所ろ、夫人は直ぐに、

 『本当に蔵戸家の顔と云うのは私です。蔵戸家の顔は代々色がーーー白いのですねえ。』
 松子の顔は透き通おる様に白い質では無い。
 松子『私の顔は、父に似たのです。父は色が黒くて背の高い方でした。』

 母に似ないで仕合わせとの嘲(あざけ)りの意も含んで居るのかと母御は思い、矯(たしな)める様に瞬(まばた)きをした。 
 子爵『私は松子さんが、春川梅子と並んだなら、嘸(さ)ぞ美しい活画の二幅対が出来るだろうと思いますよ。』

と言って、之からノスヒルドを訪問した次第から、梅子父子(おやこ)の事を語り、最後に
 『貴女も何うか蔵戸家へ逗留にお出で下されませんか。』
と請うた。松子は梅子が喜んだほど喜ぶ様子は無い。何か都の土地に恋しい事柄でも有るのか。

 唯だ。
 『ハイ』
とのみ答えた。母御の方は聞くや否や、飛び立つ様に、
 『蔵戸家へお招き下されば、私共母子の生涯の名誉です。何時でも参る事に致しますよ。』
と子爵に抜き射しさせない様に釘を打った。

 是から二時間ほども雑話して、日の暮れる頃に及び、子爵は又来ると約束して辞し去った。此の夜、子爵が留守をしている葉井田夫人に書き送った手紙には、
 『余は草村松子ほど美しく気高く、而も万事に行き渡れる少女を見たことが無い。言葉にも振る舞いにも、塵(ちり)ほどの偽りも無いのは此の少女である。

 その前に出れば、女高皇の前に出でた様な地がする。全く松子は貴族の家の女主人として生まれ出でた者のようだ。』
云々の文句が有った。葉井田夫人は読み終わって、

 『子爵は気でも違ったのか知らん。何の女を見ても此の上の無い様に云って来るとは。』
と言って、殆ど笑いを催した。



次(十四)花あやめ へ

a:74 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花