巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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      椿説 花あやめ     

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

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      椿説 花あやめ     黒岩涙香 訳

          二 一家は終に死に絶えて  

 「プリンス号の沈没」の大活字で置いた題号は蔵戸子爵の目に、一度に映じた。読み直す必要も考える必要も無い。待ちに待って居た我が息子二人の乗って帰る、その船が沈んだのだ。葉井田夫人の「悪い夢見」と云ったのが、前兆を為したのだ。
 
 けれど子爵はこの文字が目に入ったままで、それが何の意味であるかを理解することが出来ない。茫然と新聞を持ったまま顔を上げた。之は理解することが出来ないのでは無い。余りに理解が行き過ぎたのだ。見ると同時にこの文字が脳の中枢にまで突き入って、驚くと云う感じをさえ失わせたのだ。

 新聞を手に持ったまま子爵は庭の面に歩み出た。その歩み振りからして、感覚の有る人の歩とは違って居る。足が地を踏締めて居る様で無く、フラフラと浮いて居る。眼も何処を見て居るか分からない。唯空に注いで何所をも見ずに開いて居る。

 若し足元に池でも有れば、気付かずに落ち入って、溺れるだろう。我にして我に非ず。活きて居て活きた人の感じが無い。けれど幸いに、平なる庭の面で、突き当たる崖も無く、落ちて入る池も無い為め、怪我もせず徘徊(さまよ)ったが、この様な中にも日頃の癖は何処にか残って居ると見え、毎(いつ)も腰掛ける木の陰の、長椅子の所に行って腰を卸(おろ)した。

 けれどその茫然とした有様は元の通りで、顔の筋は悉く弛(ゆる)み、腮(あご)も力無く垂れて、涎(よだれ)が今にも落ちそうなばかりに口を開いて居る。

 真に何事も知らない白痴の様か、そうでなければ夢中に往来すると云う、夢遊病者の体である。
 凡そ廿分ほども経て子爵の顔は自ずから締まり初めた。そうして忽然(こつぜん)と我に返ったように、目を張り開いて辺りを見廻し、更に「大変だ」と叫んで、地を蹶(け)って立ち上がった。

 「確か新聞に、非常な事を書いて有った様に思ったが。」
と、又長椅子の上に座り直して、心も確かに新聞の記事を読み下した。

 『紐育(ニューヨーク』よりリバプールに航行し来たりつつあった郵船プリンス号に、悲しき大事変は起こった。この船は予(かね)て快速の誉高く、去る十八日に紐育(ニューヨークを発したので、一昨夜までに入港の筈であったのに、その事が無かった事から、密かに怪しむ人も有ったが、一昨朝、愛蘭(アイルランド)近海まで来て、深い朝靄に鎖(とざ)されて進路を失し、最も危険な暗礁に乗り上げた。

 船員の尽力で直ちに暗礁から離れはしたけれど、船底は大破損を受け、殆ど離れると同時に沈没した。
 乗り組みの客は二百名で、船員は八十名である。船長は直ちにボートを下ろし、先ず婦人と小児だけはこれに乗り移らせたが、船の沈没が急であった為め、そのボートすらも僅かに一艘を除く外は、皆浪底に捲き込まれ、親船と同様の最後を遂げた。

 助かった一艘は海上を漂ううち、通り合わせた商船に救われて、午後にキングスタウンに着き、その所からこの悲報を発する事が出来たのだ。報に接してその筋からは、直ちに救難の為め、ローヤルを派遣したが、既に沈溺の後であったため、波上に破船の一部分を認めた外は、何事も為す事が無かったと云う。

 次に「先客の名」と題して人名表の様な者を掲げてある。子爵は熱心にその一々を読んだが、悲しや、蔵戸太郎、蔵戸次郎の名が並んで居る。乗り遅れもしなかったと見えるのは無念である。最後を記した一項は、子爵に取って、又一層の打撃である。

 『吾人が最も悲しとするのは、下の人名表中に在る、蔵戸太郎と次郎の兄弟である。この両名は、名誉ある旧家蔵戸子爵家の唯だ二人の令息にして、前年オックスフォード大学を卒業し、直ちに世界周遊の旅に上り、満二年を経て、帰国の途に向かって居た者であるが、助かった某婦人の目撃した所に由れば、兄弟は甲板の上に立ち、互いに首に手を捲き合い、一身同体の様になって沈んで行った。その様は悲しくも又、勇ましかったと云う。

 この兄弟は前途有望として、多くの人にその帰国を待ち受けられて居たのに、終に帰らぬ人と為った事は、惜しむべき限りである。取り分けて蔵戸家は、人も知る様に、この二人の外に相続者が無いこととなれば、一家の悲嘆は如何ばかりだろう。吾人は思い遣るさえ悼(いた)わしさに耐える事が出来ない云々(しかじか)。』

 読み終わって子爵は、頽(くず)れる様に全身を震わせた。余りの事に声も出ない。涙も出ない。新聞を握り締め、歯を噛みしめ、そうして光る眼に大地を睨んで居たが、やがて立ち上がって一足、一足踏みしめる様にして家に帰った。

 先ず誰よりも葉井田夫人に、この事を知らせなければ成らない。夫人は太郎次郎を子の様に育て上げた人である。今も母が子を愛する様に二人を愛し、二人の身を気遣って居る。この凶報を知らせたならば、何れほどか驚くだろう。

 けれど知らせて夫人の知恵を借りなければ、何の様にして好いか分からない。日頃は思案に富んで居る子爵の胸にも、何の考えも浮かんで来ない。子爵は直ぐに夫人の部屋の方に行こうとしたが、夫人の方が、子爵の居る所へ来合わせた。

 之は新聞に何か出て居ないかと問う為で有ろう。
 夫人は子爵の顔を一目見て、殆ど凶報を聞き尽くしたと同じほど驚いた。
 「悪い知らせが、新聞に出て居るのですネ。」

 子爵は無言で新聞を差し付けた。夫人の眼も直ぐに彼の大活字に注いだ。
 『アア夢見が悪いので、この様な事では無いかと思いました。私は見るのが恐ろしい。聞かせて下さい。聞かせて下さい。』
 子爵は一語をも発することが出来ない。発すれば泣き声と為り、言葉とは為らないのだ。

 夫人『二人の息子が』
 子爵『溺死しました。』
 夫人は非常に静かな気質で、日頃嬉しさも悲しさも余り顔に現わし又は声に出す様な事は無いけれど、この時ばかりは、打ち倒れ、身を揺すって慟哭した。子爵も、

 『アア、蔵戸一家は、終に死に絶えて、亡びる事に成ってしまった。』
と叫んで泣いた。真に悲惨の極みである。



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