巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame25

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.7.29

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          二十五 両人(ふたり)の心中には 

 梅子松子は此の夜、何の様に眠っただろう。一日の疲れも休まったと見え、翌朝は二人とも新たに咲いた朝顔の花の様に、鮮やかに活々(いきいき)して起き出た。

 ここに一人、その様に熟(よ)くは眠る事が出来なかった人がある。それは草村夫人だ。夫人は今まで寝た事も無い程の、柔らかな贅沢な床の上に、疲れた身を横たえたのだから、直ぐに眠らあければ成らないのに、眠られない。

 噂に優って、此の家の立派な事から、底の知れないほど富裕な様子などを思ってみると、欲と羨ましさとが胸一ぱいに満ちて、眠りが入って来る隙間が無い。此の莫大な財産、広漠な領地、計算の出来ない富が誰の手に渡るだろう。

 昼間から色々と問集め、聞き定めた事柄を照らし合わせて見ると、何でも自分が前から推量した通り、梅子と松子と両方が、養女と見立てられて居るらしい。養女とと云っても、通例の養女とは違う。本当の相続人なんだ。

 子爵と云う位に嗣(つ)いて、此の家の主人(あるじ)と成るのだ。蔵戸家総体を我物とするのだ。何にしろ、広い此の英国に、梅子の春川家と自分の草村家より外に、此の蔵戸家の親類は無い様だ。若し有れば自分達と同じ様に招かれて来て居る筈なのに、来ては居ない。

 のみならず、食堂でも談話室でも客室ででも、少しも他の親類の噂は出なかった。無いからこそ出なかったのだ。愈々(いよいよ)以て我が推量は当たって居る。之からして松子と梅子とが、競争的な試験を受けるのだ。

 早くそうと知ったなら、調教師が馬に仕込んで置く様に、充分松子へ競争の心掛けを言い聞かせ、じっくりと稽古させて置けば好かったのに。イヤそうでは無い。松子は仲々賢い娘だから、教えては無くても、元来の教育も有り、必ず立派に及第するだろう。

 唯だ心配なのは、自分と違い、欲の深く無い所が落ち度だけれど、その代わり又梅子の方にしても、別に競争の稽古をして来たのでは無いだろう。併しそれにしては侮(あなど)り難い敵である。何所か松子より劣った所は無かろうかと、鵜の目鷹の目で見は見たけれど、憎らしいほど良く出来て居る。

 何だって田舎へあの様な好い女の子が出来ただろう。何もあれほど美しいには及ばないのに。併し今夜の音楽では、幸いに松子が勝った。此の後も引き続いて松子が勝つだろうか。勝てば好いが。イヤ勝つだろう。若し勝たないなら、梅子めを、高い所から突き落としてでも、イヤ真逆(まさか)にその様な事も出来ない。

 ナニも梅子の勝と極まらない先に、早まってその様な事を仕ては却(かえ)って松子の害になるなど、それからそれと考え廻し、何だか松子が勝ち相だと思っては、早や張り裂ける程に胸を躍らせ、又梅子に勝たれ相だと思っては、手の平へ爪の痕の食い入るほど拳を握り、僅(わず)か短い一夜の間に幾度か天に上り、幾度か地獄へ落ちる思いをして悶(もが)き明かした。

 それは扨(さ)て置き、早く起き出た梅子の方は、直ぐに下って庭に出で、咲盛る秋草の花壇の中を、彼方此方と歩み、花を久しき友達の様に思い、仆(たお)れたものは起こし、圧(お)されて隠れたものは開いて出(いだ)しなど、庭師には無い親切を以て余念も無く傷(いた)わって居たが、やがて人の気配がする様に思い、身を延ばして振り返ると、彼方にある紅葉林の中に、見え隠れする姿は松子である。

 片手に美しく綴じた小さい本を開き持ち。読んでは歩み、歩んでは又読み、爽やかな朝の景色を愛でつつ、静かに逍遥して居る。梅子はそれと見るや否や、懐かしそうに走って行き、
 『こんなに早くからもう本を』

 愛らしい目を開いて問うた。松子は微笑んで、
 『ハイ貴女が未だお寝(やす)みでしょうと思い、お友達の代わりにこうして歌集を持って来たのです。』
 梅子『歌集の歌より、花や景色に本当の天然の歌が現れて居ると、私の父なら直ぐに云いますよ。』
と云い、昨夜互いに笑い興じた事柄を思い出して打ち笑えば、松子も笑い、

 『オホホホホ』
 『オホホホホ』
と小川を走る水の音の様な清い声が、双方の口から一緒に出た。此れが花より景色、又得難い天然の歌と云う者だろう。

 二人は何所とも目指ざさず、徒(た)だ歩みつつ、
 松子『貴女と私とを、子爵があの様に愛して下さって、私は有難いと思いますよ。』
 梅子『私しなどは、子爵が愛して下さらなければ、生涯此の様な立派な庭を歩む事は出来なかったかも知れません。』

 唯是れ丈の言葉でも、自ずから区別がある。松子は考えた上で物を云い、梅子は気の向くままに物を云う。一は天然に綿密で、一は天然に打ち解けて居る。梅子が容貌に於いて蔵戸家の美しさを現して居る様に、松子は気質に於いて蔵戸家の秀でた所を伝えて居ると子爵が云ったのは、良く当たって居る。

 ややあって梅子、
 『でも残念では有りませんか。貴女も私も、男に生まれて居ないのが。若し男なら子爵が何れほどかお喜びでしょう。』
云う事が何うしても婀娜(あどけ)ない。松子は考えて、

 『イイエ、男であったら、是れほど愛しては下さらないかも知れません。息子に与える筈の場所を、貴女と私しとが塞(ふさ)ぐ様に思われましょう。女なればこそ、その様な疑いも有りませんから。』

 女の身を以て蔵戸家の相続人に成る事が出来ようとは、二人とも思いも寄らない所であるけれど、二人の心中には、何だか口に出して云う事の出来ない、殆ど名の附け様も無い一種の思いが浮かんで居ると見え、互いに半ば恥ずかしそうに、顔と顔とを見合わせて、そうして又ニコッと微笑んだ。



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