巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame28

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

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          二十八 輿論の判断 

 子爵の健康が損じて見れば、早く跡取りを定めない訳には行かない。梅子か松子か何方(どっち)かに極めてしまわなければ。と云って全く優劣が無いのだから、極める事は到底出来ない。もうこうなれば、更に全くの他人に見て貰う外は無い。

 それも一人や二人に見せた丈では、矢張り依怙贔屓(えこひいき)に誤られる恐れが有るから、
 『どうでしょう。此の家で大宴会を開き、多くの貴顕紳士を招いて、梅子と松子と、何方が多くの人に感心せられるか、それを実地に試(ため)してみては。』
と言い出したのは葉井田夫人である。

 実に窮策では有るけれど、外に策が無いのだから仕方が無い。
 『成るほど可否を輿論に問うのですか。宜しいでしょう。』
と賛成したのが瓜首である。子爵は、
 『イヤ輿論の判断と云う事も、余り当てには成らないけれど、両人の意見がそう定まった上は、早速にそう仕よう。』
と云い、話が極まった。

 けれど大宴会と云う事は容易で無い。準備だけでも中々大変だ。葉井田夫人は自分の口から出た事で有るけれど、もしも大勢の客に萬一の不満を与える事が有れば何う仕よう。

 それに、自分自身が久しく世間の宴会にも出ない為に、此の頃の風にも疎く、若し後で笑われる様な事でも有っては、家名にも障る訳と、今更の様に少し飽倦(あぐ)んだ《如何して好いか困る》が、それと見て取って非常に喜んだのは草村夫人である。

 今まで何彼(なにか)に付けて葉井田夫人の機嫌を取る様に勉めながらも、実は夫人が此の一家の事を何から何まで切廻して居るのを羨ましく思い、何うかその権力の三分の一なりとも、自分の手へ奪い度いと望んで居た。

 もう女が五十と云う年になると、自分の身に権力の無いのを何よりも淋しく感ずる者だ。客分として此の家に居て、今まで夢にも見た事の無い贅沢を尽くして居るのは、好い事は好いけれど、自分で思うままに、万事を切り盛りして、下女下男へも直々に指図する事が出来れば何れほどか気が楽だろう。

 様々の方面から勘定して、初め程は唯だ親切に夫人を手伝って居たが、何時の間にやら、夫人に手伝わせるのかと見える様な杖には成った。
 是れは夫人の気質が全く此の夫人と違って居る為である。

 葉井田夫人は権力などと云う考えは少しも無く、唯だ此の家の為を思う許かりで、少しでも当世の事を余計に知って居る人の心に従い度いと思うのだから、問は無くて好い事まで念の為に此の夫人に問う様に仕て居るのだが、後に思うと、是が此の夫人に、益々大家を支配する大権力の味を知らせ、死んでも此の家を立ち去っては成らないとの湿(しつ)っこい迄の欲心を起こさせる元で有った。

 ナニ今現在の欲心さえ随分湿(しつ)っこいけれど、その上に輪を掛けさせたのだ。
 唯だ一つ葉井田夫人が此の夫人と争ったのは、梅子松子の着る衣類の事であった。勿論両女のを特別にフランスの巴里へ注文する事に成り、注文の明細書を此の夫人が認(したた)めたが、それを葉井田夫人へ見せずに、封のまま出そうとしたから、葉井田夫人が中を見せて下さいと請うた。

 『その様な事を仕て居ると、郵便〆切りの時刻に後れます。』
と極々自然らしく言い開いたけれど、
 『イイエ、是だけは一応子爵にお目に掛けて置かなければいけません。』
と、静かな一言で異存を云わせず、直ぐに子爵の所へ持って行って示すと、子爵は眉を顰(ひそ)め、

 『イヤ梅子さんは十七なのに、此の様な老(ふ)けた好みでは見劣ります。矢張り松子さんと同様に、色の淡(うす)いのにして、モッと婀娜(あどけ)ない飾りなどを加へなければ。』

 夫人は言紛らせた。
 『アレ先達てから気を附けて見てますのに、梅子さんには何の様に地味な柄に映りましょう。それを私は流行雑誌なども沢山参考にしましたのに。』

 子爵は唯だ穏やかに、
 『好みは人に依って色々です。』
と直ぐに筆を執って直す所を直し、
 『サア此のままで出せば猶(ま)だ郵便の時間に間に合います。』
と云って時計を眺めた。

 危うい所で梅子は、年に似合わない婆じみた姿で大宴会へ出る事になる所であった。
 大宴会の事は詳しく記すに及ばない。全く招待状を受け取った丈の人は残らず来て、宴会としては非常の成功であったけれど、梅子松子の優劣に対する輿論の判断を請う為としては失敗であった。

 総ての人が梅子松子の美しさ愛らしさ清さに、一様に感服した。極々不公平な人が有って、甲の方が優ると云えば、直ぐにその傍らに、イヤ乙が優ると弁駁する人が有ると云う様で有った。

 それで最後の断案は、
 『何うして当家の主人は、世の中に二人とは無い美人を二人揃える事が出来たのだろう。』
と云う謎の様な疑問に帰して終った。

 けれど是れ丈は事実であった。夫婦連れで数日逗留の約束で来た客は、孰(いず)れも細君の方に何か彼か口実が出来て、予定の日数より長く逗留した。のみならず晩餐の席に列なりたがる訪問客がズッと殖えた。是れは何の勢力だろう。



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