巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

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          三十一 お遽(あわ)てでない 

 母なる草村夫人の呼ぶ声に、松子は梅子と分かれようとして、又念を押す様に、
 『此の約束は良く分かりましたでしょうねえ。』
と云った。或いは自分が相続人に選ばれるだろうと思っての為かも知れない。イヤ必ずしもそうでは無いが、若しかしたら自分が選ばれるか知れないと位には思っただろう。

 是は梅子も同じ事である。双方ともにそう思うと、無邪気無欲の身で有っても、実に生涯の大事な場合だと、急に重々しい心地が湧き出る様に感じられるらしい。

 双方ともに何時に無く、極めて真面目な顔とは成った。
 梅子『ハイ守りますとも。』
此の一語で二人は分かれた。

 この様にして、松子は母の許へ行きながらも更に考えた。若し此の家の相続人と為れば何うなるだろう。国中屈指の貴族と為り、大金満家と為り、敬(うやま)われ羨(うらや)まれもするに連れ、重い重い責任と云う者が我が肩に掛かって来る。

 勿論人は責任を負わなければ成らない。此の身は女とは云え、若し領地を支配する事とも成ったなら、こうもして彼(あ)あもしてと、此の家へ来て以来思った事が無いでも無い。此の家の領地が直ぐに此の身の物に成ろうとは、夢にも思わなかったけれど、領地を見ては、その様な事を思い、唯だ空しく怪しんだことは度々である。

 その怪しみが幾等か真(まこと)の事に近くなることは妙な者だ。若しも此の事を友達に聞かせれば、イヤ民雄に聞かせればーーーと到頭民雄の事が何より大切な思案と為った。

 今知らせれば、事に由ると喜ばないかも知れない。けれど若し相続人に成った上で知らせれば、此の身が貴族と仰がれる身に成ったと知って、真逆(まさ)か喜ばない事は無かろう。

 幾等平民主義、独立主義と云って、自分の腕一本で稼ぎ上がるのを、此の上の無い名誉と心得て居る人だとしても、自分の妻が不意に貴族と為り、大金満家と為って、生まれ得た天然の権利と天然の幸運で出世する者を、何で腹立たしく思う者か。必ず喜んで、祝いにも来るだろう。

 イヤ未だ当選も何もした訳では無い。愈々(いよいよ)何方にか極まる迄は、知らせて遣らずに置くのが好い。
 母御は再び現われて、又も呼んだ。
 『松子、松子、何をその様にグズグズして居る。』
此方がグズグズして居るのでは無い。自分が苛立(いらだ)って居るのだ。

 やがて松子がその傍に行くと、
 『先ア私しの部屋へお出で。』
と云って直ぐに二階へ連れて上った。そうして部屋に入るや否や、今まで燥立(いらだ)って居たけれど、更に輪を掛けたほど燥立ち、声までも震わせて、

 『サアその入口の戸を締めてお呉れ、人が来るといけないから。』
と云い、松子がその言葉に従うのを待ち兼ねて、

 『アア私は先程、子爵から言い渡しを受けた時、何の様に胸が騒いだだろう。それでも人の前だから何気無く構えては居たが、何うだろう松子。大変な事に成ったでは無いか。此の様な時は遽(あわて)てはいけないよ。お遽てで無い。お遽てで無い。』

 松子は嘲笑(あざわら)うように、
 『貴女よりほか誰も遽(あわて)ては居ませんよ。』
 母『先アその様な事は何うでも好い。何と目出度い事に成ったでは無いか。』

 松子『阿母(おっか)さん、その様な事を云って下さるな。未だ何とも極まっては居ないでは有りませんか。』
 母『イイエ、極まって居ます。極まって居る様な者です。必ず和女(そなた)に極まるだろう。

 和女は知らないだろうけれど、私は此の家に来た時に、直ぐにそれと見抜いてしまった。和女と梅子とを見較べて何方かを相続人にする為で無ければ、何で故々(わざわざ)招く者か。私はそうと知ったけれど、誰にも云わずに居た。

 云いこそしなかったが、私が内々で苦労して居た事を何れほどとお思いだ。瓜首や葉井田夫人の機嫌を取る許かりでも、私は寿命の縮まる程であった。葉井田夫人の方は何うか分からないが、瓜首はもう全然(すっかり)和女に同情を寄せ、和女ほどの賢女は又と無い様に思って居る。

 アレ、先アお聞きよ。だから和女が愈々(いよいよ)相続人に定まれば、半分は私のお影だよ。イイエ半分も七分も八分も私のお影だ。そうともね。何も親子で手柄を争うには及ばないけれど、本当に和女はこの阿母(おっか)さんを有難いと思わなければ済まないよ。エ、そうは思わないかえ。』

 独りで二人の事を喋舌って居る。松子は漸く母の言葉の切れるのを待って、
 『イイエ、阿母さん、私では有りませんよ。屹(きっ)と梅子さんに極まりますよ。私は昨夜の晩餐の時なども、遠慮無く木陰谷の事などを云いまして、多分子爵のお気に障(さわ)っただろうと思いますもの。』

 母『イイエ、所が、あれが大層好かったのだよ。私も一時は何うしようかと思ったけれど、今朝も瓜首が大層和女の言葉を褒めて居た。子爵も感心せられた相だ。流石に和女は学問が有る丈に、人と違った事を云うが、それが矢張り学問の有る人には感心せられる。
 
 是も同じく阿母さんが学問を仕込んで遣ったお陰だよ。それはそうと、和女は少しも子爵の前で、フランス語を使わないね。是からは、話の中へ少しづつ調合おしよ。そうすれば愈々(いよいよ)和女の優った事が分かって来るから。』
 
 松子『私はその様な事をして、自分の為ばかり考えるのは嫌いですよ。』
 母『自分の為では無い、阿母(おっか)さんの為なのよ。孝行の為なら少し位はやってくれてもーーー。』

 松子『イイエ、私は自分の悪い所は悪いままに知らせ、その上で極まるなら本望ですけれど、飾り立てる様にして取り極められるのは御免です。今夜私は子爵の前で自分の今までの事を残らず申して置こう思います。何は兎も角、民雄さんの事などは良く申し上げて置かなければ、後で子爵が、それは見込みが違ったと、仰有る様な事が有っては。』

 母御は椅子から蹴上げられた様に立ち上がり、
 『エ、エ、何と云う、民雄の事を、民雄とは何者です。母の許さないアノ書生の様な代言人《弁護士》だろう。母が許さなければ、和女の為に何でも有りません。何でも無い人の事を子爵に言って何とします。』

 母御は殆ど狂気の様である。



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