巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame32

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 5

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

a:121 t:2 y:0

          三十二 譬へ様の無い大の盗賊 

 自分に許嫁の夫が有る事を、子爵へ押し隠して置いて当選するのは、松子の気質として何うしても出来ない事だろう。殊に外の場合とは違い、自分が若し子爵家の当主と為れば、自分の夫より更に上にも立つべき人である。

 財産家産一切権利は当主たる自分に在るとしても、自分の心は夫の心に従わなければ成らない。そうだとすれば、自分が此の家の当主に成るには、民雄が此の家を相続するのと大した違いは無いのである。それなのに何うして民雄の事を子爵に告げずに置かれよう。之を告げなければ、何だか子爵を欺く様にも思われる。松子の心は全く決して居る。

 併し松子の決心よりも、母の決心の方が更に強い。何うして松子にその様な事を、子爵へ打ち明けさせて成る者か。之を打ち明けては万に一つも当選はしない。何が何でも是ばかりは、押し留めなければならない。

 真に夫人は立腹した。何所の馬の骨とも知れない書生同様の男が、こうまで我が娘の心を奪って居るとは、実に許し難い盗賊である。之が為に此の大事な相続権を取逃がす迄に立ち到っては、賊も賊、譬(たと)え様の無い、大の盗賊、之を追い払わないで成る者かと、全く血眼に成って民雄の事を罵った。

 勿論口の達者な此の夫人が、必死の場合だから、何れほど口穢(ぎたな)かったかは、云うに及ばない。若し他人がその言葉を聞いたならば、全世界を悉(ことごと)く盗んでしまう程の、大賊が現れた様にも聞こえただろう。

 又人間にして何うしてそうまで、深い悪心を持つ事が出来るだろうと、怪しみもする所だろう。けれど松子には効は無かった。夫人が罵(ののし)れば罵る丈け、益々松子は固まった。

 そうして漸くに夫人の言葉が途切れるのを待ち、非常に静かに唯だ一言云った。
 『それ御覧なさい。阿母(おっか)さんがそれほど悪く云う人ですもの、猶更(なおさら)隠して居ては済まないでは有りませんか。』

 実に、静かだけれど苦い言葉である。母御は怒鳴った。
 『隠して居よと云うのでは有りません。その様な者を、夫だの許嫁だのと云う事は間違って居るのだから、捨ててしまえと云うのです。夫でも無く、許嫁でも無い者を、何で子爵に申し立てて、何で恥を晒します。』

 松子は又一言、
 『では、民雄さんを捨てるより、此の蔵戸家を捨てましょう。』
 夫人『エ、何と』
 松子『ハイ私は此の家の相続人には成られないと、子爵へお断わり致しましょう。』

 母御は到底駄目だと見た。
 『和女(そなた)がその様な事をすれば、私は死んでしまいます。』
と云った。全く此の相続を取り逃がすのは、夫人に取っては命を捨てるよりも辛いだろう。夫人の言葉は霰(あられ)の様に口から手走った。

 『和女は、私の死ぬのを何とも思わないのだね。私を殺すのだね。サア剃刀を持って来てお呉れ、和女の望み通り死んで上げるから。』
 何たる無理な言葉だろう。無理に従う松子では無い。夫人は此の手段も亦無効と見て、もう百計尽きた。今度は声を放って泣き出した。

 是は計略では無い。空泣きでは無い。本当に悲しく成ったのだ。此の夫人に取っては、親に離れるよりも、此の身代《財産》に離れるのが辛いだろう。夫に死なれた時でさえも、是ほど真実には泣かなかった。身も世も有られないとは、夫人の此の時の心持ちなんだろう。

 誠を絞る血の涙と云うものである。嗚呼唯だ真実の心のみ良く人を動かすとか。石の様に固まって居た松子も、之には動いた。
 『貴女はそれほど悲しいのですか。阿母(おっか)さん。』

 母は力も無く、絶え入る様な声で
 『私は先あ何の罰で此の様な悲しみを受ける事に成ったのだろう。』
と云った。何の罰でも無い。自分の欲心が深過ぎる報いなんだ。けれど流石に子としては、そう思う事は出来ない。今まで余り強情を張り過ぎたかと、何だか済まない様な気も起り、母の心中が気の毒に思われて、松子は潔く言い切った。

 『それなら阿母さん、貴女のお言葉に従いますよ。』
 言い切りはしたものの、直ぐに後悔の念が起こった。アア言い切らなければ好かったのにと、悔やんでも、もう帰らない。母御は涙の中から声を出して、

 『オオ本当に私の言葉に従ってお呉れかえ。』
 松子『ハイ、仕方が有りません。無言(だまって)居ましょう。』
 母御も、松子の胸に、何れほど済まない心が蟠(わだかま)って居るかを察した。こう従われて見ると、気の毒で無いでも無い。

 今までの自分の怒り方が烈しかった丈、猶更(なおさら)だ。一言、礼をと迄には行かなくても、少し松子を慰めなければ、心が落ち着かない。

 『オオ何うかそうしてお呉れ。そうしたからと云って、何も子爵に済まないなどと云う訳では無い。和女が当選すると極まって居る者なら、それは何も彼も打ち明けなければ済まないだろう。けれど当たるか当たらないか分からないのだもの。

 それに子爵の方としても、充分和女と梅子さんの気質を見抜いた上と仰っるのだから、今打ち明けるには及びまん。若し梅子さんが当選して御覧な、和女が打ち明けるのが無益の手数と云う者では無いか。オヤ此の女は早や、自分で当選する者と取り極めて居るのかも知れない。

 余り自惚れが強過ぎるぢゃ無いかと、此の様にも疑われるからねえ。』
 成るほど理屈は何うでも附く者だ。松子の胸に蟠(わだかま)った済まない心も、之が為に幾等かは薄らいだ。そうだ、当選とは極まらないのだから、未だ打ち明けなければ成らなと云う者では無いと、口の中で母の言葉を繰り返した。

 幾等娘が賢くても母は母だから猶(ま)だ是だけの勢力はある。



次(三十三)花あやめ へ

a:121 t:2 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花