巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame33

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

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          三十三 私しだとて心配は 

 松子は母の言葉に従ったけれど、猶(ま)だ何だか済まない様な心地が、心の底に残って居た。成るほど自分が当家の相続人と極まりもしないのに、極まるに極まって居るかの様に子爵へ、自分の身の上を打ち明けるのは可笑(おか)しい。

 可笑しいけれど打ち明けないのは何だか善く無い様である。何うすれば好いだろうと、母の部屋を出て後もまだ考えて居た。
 若し此の状態で日数が長く続いたなら、必ず松子は子爵へ打ち明けて置かなければ成らないと云う、最初の心に帰った所だったろう。

 けれどそう日数が無かった。最初の心に帰るまでに至らないうちに、自分と梅子との運命が、極まる事に成って居た。
 梅子の方は、何も自分の身の上に就いて、隠すの打ち明けるのと心配する様な事は一つも無い。

 生まれて十七年の間、殆ど同じ月日を送って居のだ。今日の梅子を見れば、昨日の梅子も分かる。十七年の間、毎日の梅子が今日の梅子の通りである。素直で愛らしくて、思う心が悉(ことごと)く顔に現れて、そうして人を愛すると云う事は知って居て、怨(うら)むの憎むのと云う事は知らない。

 強いて今までの中で異(かわ)った所を求めれば、学校に行ったと云う一事件が有る許りだ。それも幼い中に母親から色々教育を受けていた丈けに、別に学課が難しいとは思わなかった。併し誰とても人に負けるのは厭だから、随分勉強はした。

 したけれど、別に苦労の、波風の、と云う様な事は何も無かった。毎(い)つも級《クラス》では一番か二番に居て、同級の生徒から、梅子さんは教師が贔屓して下さるからと云はれたのが若し人に恨まれると云う者なら、恨まれたのは後にも先にもそれのみなんだ。

 贔屓(ひいき)か何だか知らないけれど、卒業は一番であった。教師にも校長にも惜しまれた。もう二、三年、中学以上の高等な学校で修行すればと云われたけれど、それは父が許さなかった。学問はもう沢山だから、之からは絵の稽古をしなければいけないと云って、膝許にに引き留められた。

 そうして一年の月日を送るうちに、不意に蔵戸子爵が見えて、此の家へ連れて来られたのだ。驚いたのは生涯是のみだ。
 真に梅子は、玉ならば何の曇りもない玉と云うべきだろう。その健々(すがすが)しくて、心が透き通って、何の心配も無さ相に見える様子には、松子さえも羨ましい程に思った。

 自分が民雄と母との間に立ち、子爵へ打ち明けようか打ち明けまいかと心配するに付け、益々梅子の曇り無い所が目に附いて、或る時梅子にこう云った。
 『ほんに貴女は、羨ましい様ですよ。』
と、けれど梅子にはその意味が分からない。

 『何でその様な事を仰有(おっしゃ)るの。』
 松子『少しも心配と云う事をお知り成さらないのですもの。』
 梅子は笑った。
 『アレ、私にだって心配は有りますわ。』
 松子も笑って、
 
 『オホホ、何の様な心配です。』
 梅子『阿父(おとう)さんが、内に一人ですもの、毎日婆やに叱られて許り居るだろうと思いますと、時々帰り度く成りますよ。』
 松子『その様な事が貴女の心配だから、それだから羨ましいと云うのです。』

 梅子『でも貴女は阿母(おかあ)さんが傍に居て、何から何まで仕て下さるでは有りませんか。私しなどは阿母(おっか)さんが居て呉れれば、何れほど心が楽だろうと思います。貴女の方が何れほど羨ましいか知れません。』

 訳も無い雑話では有るけれど、多少は二人の気風の違いひも分かって居る。之を聞いて居た葉井田夫人は、何と無く、梅子が亡き母を慕う様に聞こえるのを不憫に思い、此の様な身の上を此の様な競争の場合に立たせるのは、痛々しいと云う様に感じた。

 幾時の後、梅子の独り居る所へ行き、
 『梅子さん、貴女は子爵から言い渡された事が、気には掛かりませんか。』
と問うた。
 梅子は極めて自然な言葉で、却(かえ)って葉井田夫人のこのように問うのを怪しむ様に目を開いて、

 『気に掛けても仕方が無いでは有りませんか。子爵のお目で見て下さるのですもの。子爵のお目を私が何うする事も出来ませんわ。』
 夫人『でも貴女は、此の家の当主に成り度いとは思いませんか。』

 梅子『それは成り度いと思います。何うか貴女が仕て下さい。』
と云って笑った。
 夫人『若し成られなかったら。』
 梅子『成られないのが当たり前だと思います。何で私は、子爵が松子さんにお極め成去らないのだろうと怪しみますよ。』

 夫人『それは貴女と松子さんの優劣が、分からないからと、子爵が仰有ったでは有りませんか。』
 梅子『優劣は分かって居ますよ。それだから私は、先(さ)っき松子さんが羨ましいと思いました。私に何の取り所が有りましょう。何で松子さんと優劣が分からないのでしょう。』

 問うその心の底の清さが、又と得難い取所であるのだ。
夫人は何だか胸の塞がる様な心地がして、返事をせずに居た。
 梅子は合点の行った様に、

 『子爵のお目で、私の取所は唯だ一つです。私の顔が亡くなられた太郎様の顔に似て居るとか云う事だけです。それだから迷って居らっしゃるのです。でも一つでも取り所が有って私は仕合わせだと思います。ねえ夫人、仕合わせですよねえ。』

 夫人は何で此の無邪気な清浄な娘が、我が子で無いだろうと殆ど天が恨めしい様に思った。そうして堪(こら)え難くなったか、抱き寄せて額に接吻した。梅子には分からないけれど、夫人の眼には涙がいっぱい溜まって居る。

 若しも梅子の顔へでも落としては成らないと思う様に、頓(やが)て梅子を押し退けて、傍(そと)を向いて立ち去った。
 吁(ああ)、勝負は何う附くことだろう。



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