巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame36

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 9

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

a:118 t:1 y:1

         三十六 紙一枚でも威光がある 

 実に重大な場合である。蔵戸家の千年後までの運命が、此の投票で決するのだ。何の儀式も無い。
 子爵の様子だけれど、何と無く気が改まって空気が重くなった。
 部屋中に何の音も無い。子爵が投票用紙を取って分ける音がサワサワと聞こえた。唯だ三枚の投票用紙。之が梅子と松子との運命をも含んで居るのだ。

 こうなると紙一枚でも威光が有る様に感ぜられる。是を扱う子爵の手先は震える様に見えた。受け取る瓜首の手はそうでも無かったが葉井田夫人に至っては、全く戦々(わなわな)した。
 次に筆墨を渡した。そうして子爵は言った。

 『何うか良く考えて、後で悔やむ事の無い様に。』
アア悔やむ事の無い様に、之は何の意だろう。暗に梅子とか松子とか仄(ほの)めかす心だろうかと、葉井田夫人は少し怪しみ、何方かと考えて、垂れて居た眼を少し揚げて見た。けれど子爵の顔は唯だ重々しいのみである。

 瓜首は筆に墨を含ませたまま点を仰ぎ、宛も神に祈る様な音調で、
 『何うか蔵戸家の千百年の為を誤らない様に、何うか吾々一同、私情に誤られない様に。』
と云って下に向いた。私情に誤られない様にとの語が、妙に力強く聞こえた。

 子爵の心にも感じただろうが、とりわけ神経の微妙な葉井田夫人の心には、浸(し)み通る様に伝わった。夫人の手先は又震えた。
 やがて子爵は、病気に似合わない確かな手で、投票用紙へ書いた。梅と書いたか松と書いたか、それは分からない。

 瓜首は一字毎に筆を揚げ、その先を瓢乎瓢乎(ひょこひょこ)と動かしつつ、法律家然と書いた。但し頭も例に依って多少動いた。葉井田夫人が一番後(おく)れた。殆ど恐る恐るに書き終わった。そうして顔を揚げた時は、全く真っ青であった。

 長い病気の後であっても、こうまで青くは無い。憂心忡々と云うのは此の様な様(さま)だろう。やがて子爵は双方から投票を集めた。自分のと共に三枚、静かに数えて瓜首に渡した。

 『サア瓜首さん、そこで読み上げて下さい。三枚だから、何方(どちら)かが多く成って居るのでしょう。』
 真に何方が多く成って居るだろう。梅だろうか。松だろうか。瓜首は命に従い、先ず一枚を開いて読んだ。

 『草村松子』
と。その声は静かな部屋の中へ物凄く響いた。又次のを開いて読んだ。
 『草村松子』
 引き続いて最後の一枚を又読んだ。
 『草村松子』
 三枚とも同じ事である。
 『春川梅子』
と云うのは一枚も無い。

 此のとき、絶えも入るかと疑われる泣き声が葉井田夫人の喉から細く細く糸の様に洩れた。真に彌々(よよ)と泣くとは此の事揚げぬ。唯だらう。夫人は自分の前に在る、小さいテーブルに全く蹙(しが)み附き、顔を揚げない。唯だその背に波の打つので泣き入って居る事が分かる。

 子爵御自身すらも堪(こら)え兼ねたか、曇らせまいとすれど曇る声で、
 『アア此の様な結果に成ろうとは思わなかった。何も是れほど梅子の方が、松子に劣って居る訳では無い。』
と云って目をしばたいた。そぞろ悲しさに耐えられない様が推量せられる。

 『けれど何あに』
と云って子爵は気を取り直したけれど、何うしても取り直すことが出来ない様子が、降り落ちる涙に分かって居る。

 『けれど何(なあ)に、三人の投票が揃って、葉井田夫人よ、是ほど目出度い事は無い。アア目出度い。目出度い。三人が三人とも投票する此の上の無い後取りが蔵戸家に出来た。アア目出度い。』
 唯だ目出度いと許りで、ご自分が泣いて居るから、葉井田夫人にお泣き成さるなとも云う事が出来ない。

 涙と涙との間に介(はさ)まり、瓜首は自分の勝利を喜ぶことも出来ずに、怪訝(けげん)な顔で双方を見て居たが、此の様な状態では、何う云う事で、投票仕直しの議が起こらないとも限らないと思ったか、独り言で無く誰に向かって云うでも無い中間の語調で、

 『三人が三人とも同じ投票をしたのだから、もう仕直すと云う理由は少しも有りません。仕直す理由は少しも有りません。』
と低く繰り返して居る。
 『誰も投票を仕直すとは言いません。』
と云って漸く葉井田夫人は顔を上げた。そうして直ぐに子爵に向かい、猶(なお)も咽(むせ)びの止まらない声で、

 『梅子は今日から私しが養女に貰い受けます。私情でも何でも構いません。もう私の娘です。』
 子爵はハンカチを取り、俯向(うつむ)いて鼻をかみ、その序(ついで)に目を拭(ふ)いて、

 『私が悪かったのです。筆を取る時まで梅子に仕ようと思って居て、ツイ。。。』
 夫人『私も初めからその積りで居たましたのに。。。』
と許りで、後は云わずも、瓜首の言葉に制せられたとの意が分かって居る。

 ソレ愈々(いよいよ)投票仕直しの議が始まり掛けたと、瓜首は又も中間の声で、
 『投票に書いた意思が本当の決心です。その前の意見が何うあっても効力は有りません。』
と言い掛けたが、それよりもと気が附いたか、

 『何しろ子爵よ、葉井田夫人よ、一同の意見が揃い、是ほどお目出度い事は有りません。早速お歓びを申し上げます。蔵戸家万歳、松子嬢万歳。』
と唱えた。是れで十々滅(とどめ)を刺した様な者だ。愈々事は極まってしまった。


次(三十七)花あやめ へ

a:118 t:1 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花