巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame37

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 9

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         三十七 親子と云う心持ち         
          

 兎も角も極まってしまった。何と悔やんでも仕方が無い。のみならず又、それぞれ思い思いに投票して、その結果が合ったのだから、何も悔やむ所は無い。たとえ投票の間際まで梅子と思って居たにしても、全く瓜首の云う通り、投票の表へ書いた名前が、自分の本当の決心なんだ。

 葉井田夫人はこう思い直して又子爵に向かった。
 『イイエ、良く思うと、全く是ほど目出度い事は有りません。三人の投票が松子一人に集まったことは、それが何より松子の優って居る証拠と云うもの。若し一票でも違ったのが有っては、互いに後々まで気まずい思いの残る所です。私しは真実に松子の当たったのを喜びます。』
 
 流石に事の分かった夫人だから、一旦の悲しみが通り越せば、少しも愚痴らしい所は無い。却って子爵の方が、未だ残念が納まらないか、
 『何うか夫人、梅子の事は総て貴女に願います。今思うと母も無し、年も松子より下の者を、松子と競争する様な地位に立たせたのは、私が悪かったのです。』

 夫人『貴方はその様な事を仰有らずに、早く松子へ此の吉報を聞かせ、親子と云う心持ちに、お成りなさらなければ。イイエ、梅子の事はご心配に及びません。』
 瓜首も、もう大丈夫と見た様子で、
 『それでは子爵、早く、松子嬢の為にーーー。』

 子爵『松子の為に遺言を作れと云うのでしょう。無論です。もう極めた以上は、何も彼もその通りに運び、養女の披露なども、早速に済ませます。』
 是で相談は尽きた。夫人も瓜首も退いた後に子爵はホッと息した。

 『ウム、梅子へ一票も入らぬとは、何だか公平を欠いた様な気もするけれど、仕方が無い。実際に当家の相続人としては、松子の方が優って居るのだろう。何も残念に思う事は無い。もう是で重荷が降りたのだ。』

 果たして重荷が降りたのか分からない。
 此の日の夕刻に及んでからで有った。松子が丁度母夫人の部屋へ来合わせて居る所へ、子爵から使いが来た。松子に話し度い事が有るから、書斎まで寄越して呉れとの頼みを伝え
て去った。

 母夫人は直ぐに尋常では無いと悟った。毎(いつ)もならば、直々に松子を呼ぶのに、殊更ら此の母へ、松子を
寄越して呉れと云って来るのは、事柄が重大な為に違い無い。夫人は松子に蹙(しが)み附く様にして、

『松子、松子、大変な場合ですよ。先刻瓜首と葉井田夫人とが、子爵のお居間で三、四時間も相談して居た様だ。常に無く瓜首が私へ挨拶せずに帰ったところなど見て、私は色々と推量して居たが、何でも相続の事に違い無い。

 松子、確(しっか)りしてお呉れ。私しは若し此の家から立ち去らなければ成らない事にでもなれば、全く死んでしまいますから。』
 松子『その様な事を仰有っても、仕方が無いでは有りませんか。』
と云ったまま子爵の部屋を指して去った。

 子爵は疲れた様子が見えるけれど、先刻から見れば、余ほど落ち着いて居る。多分は一眠り成さったのだろう。松子の入り来るのを見るが否や、全く自分の娘の様に、懐かしそうに手を取って、

 『松子さん、先日来の評議の結果、愈々(いよいよ)貴女を当家の相続人と云う事に定めました。』
 流石に驚かない訳には行かない。
 松子は『エ』と云って殆ど顔の色を変えた。

 子爵『それを和女(そなた)に言い渡す為に、呼んだだのです。今日と云う今日から、貴女は私の娘、蔵戸家の女主人と為るのですから、何うかそのお積りで、私しに安心させて下さい。葉井田夫人も瓜首も皆貴女に賛成し祝詞を述べて退きました。』

 松子は変わった顔色が容易には元に帰らない。
 『私は、此の様な大家を相続するなどとは、夢にもった事が有りません、重い責任に耐えられるとは思いませんから。』

 子爵『ナニそうでは有りません。私も相続人の出来た事を力に、何としても未だ数年は存(いきながら)え、その中に良く貴女に教えて上げます。』
 松子は涙こそ流さないけれど、此の恩に感ぜずに居られようか。
 『有難う御座います。』
と低く云って子爵の手を取って接吻した。

 子爵も引き寄せてその額を啜った。是で親子の誓いが成り立ったのだ。
 子爵『こう極まれば、是から私は遺言状をも認めますから、何うか貴女から阿母さんへお話下さい。』

 松子は命を領し、夢中の心地で退いた。そうして再び母夫人の部屋へ入ると、夫人は少しの間だけれど、十年も経った様に待ち兼ねて居たが、直ぐに額を付き出して、

 『何うだった。エ、松子、オオ和女の顔色は、アレ悪い事ならもう私しへ知らせてお呉れで無い。この家から出る様なら、私はもう死んだ方が、死んだ方がーーーエエ悔しい、梅子に負けたと云うのだろう。何うせ梅子にはは葉井田夫人が附いて居るから叶いはしない。アノ瓜首も余り頼み甲斐の無い老いぼれだ。』

 罵(ののし)って止め相にも見えない。松子は此の言葉で初めて自分と梅子と競争して居た事を思い出し、梅子が何の様に感ずるだろうと怪しみつつも、
 『阿母(おっか)さん、好いか悪いか知りませんけれど、今日から私を養女にすると、子爵から言い渡されました。』

 夫人『エ、エ、何だと、和女(そなた)を養女に、蔵戸子爵が。』
 松子『ハイ私を蔵戸家の相続人に定め、葉井田夫人も瓜首も祝詞述べて退いたと仰有りました。』
 草村夫人は、本当に気絶した。折々用いる気絶とは違い、少しも労せずに出来た気絶なんだ。併し此の様な気絶なら何度でも仕たいだろう。



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