巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame39

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 12

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        三十九 晴れた空に無数の星が 

 葉井田夫人も心を取り直して、出直して来て、一同と共に歓びを述べた。
 誰れ一人、松子の当選を尤(もっと)もと、思わない人は無かったが、又誰一人、梅子の落選を怪しまない人は無かった。落選したからと云って、少しも松子に劣る所は見えない。

 却(かえ)って落選の為に、その気質の美しさが、引き立って良く分かった。少しも松子を羨む様子も無く、又故(わざ)と羨(うらや)まない様に勉めて居る様子も無い。

 全く羨(うらや)むの、嫉(ねた)むのと云う、曲がった心を持って居ないのだ。そうして松子の当選を喜ぶ事は、誰にも劣らない様に見える。イヤ唯だ草村夫人に劣る許りだ。

 子爵は無論満足の体では有るけれど、梅子の此の無邪気な様を見ては、何だか心の底に、安んじ難(がた)い所も有るのか、今までの様に充分に梅子の顔を見ると云うことをしない。

 梅子が子爵の傍に行って、歓びを述べた時なども、子爵は嬉しそうで有ったけれど、少し眼を垂れた。外の人々も梅子の方へ、余計に心を取られて居るらしい。松子の顔よりも梅子の顔の方を時々見る。

 中でも虎池大佐は、梅子の為に最も多く涙を浮かべた人であったが、同席の丸亀男爵に向かい小声で、
 『大分運動の力が有った様ですねえ。』
と云って草村夫人に目を注ぐと、男爵もその意を悟って、我々の打ち続く不運で分かって居ます。』
と云って、瓜首に目を注いだ。

 他人は何の事とも知らないけれど、当人同士には分かって居るらしい。テーブルの下で手を握り合って、意見が合ったのを喜んだ。
 併し晩餐も無事に済んだ。勿論無事に済まない筈は無いのだ。

 一同立上がるに至り、松子は梅子の傍に行きその手を取った。梅子も嬉しそうに手を取られて立ち上がり、共に談話室の方へ行きつつ、
 松子『私しは貴女が本当に喜んで下さるので、極まりが悪い様に思います。誰も私しを祝するよりも、貴女に感心して居る様です。』

 梅子『本当に喜びますとも、それに先日約束したでは有りませんか。互いに羨(うらや)やんだり嫉(ねた)んだりはしない様にと。』
 梅子の言葉は全く真面目である。松子は少し笑い、
 『貴女が羨んで下されば、もっと私は嬉しいかも知れません。』

 梅子『私しは羨ましいと云ったでは有りませんか。本当ですよ。一昨夜も独りで考え、若し阿父(おとう)さんをここへ迎え、之が私しの家です。御覧下さいと云う事が出来る様に成ったら、何れほど嬉しかろうと思って居ると、葉井田夫人に、何をその様に考えて居ると問われました。

 けれど、ナニ、私しより貴女の方が、此の家の相続人に似合(につかわ)しい事は良く知って居ます。それだから直ぐに、思い直し、嘘にも此の様な事を考えては、愈々(いよいよ)の場合に失望して、貴女を恨(うら)む様に成っては成らないと、自分の心へ意見しました。その時から、此の家は貴女の物だと私は心の中で極めて居ました。』

 松子は殆ど感激して、
 『決して私は、貴女に勝ちたいと思ったのでは有りませんよ。』
 梅子『それは分かって居ます。自分で思ったとしても、人の眼鏡ですものーーー。』

 松子『その代わり愈々(いよいよ)私が相続する時が来れば、貴女の阿父さんを迎え、前からお話の、春川絵画書館と云うのを建てて寄付しますよ。貴女は成る丈け長く、此の家に居て下さい。ねえ。』

 梅子『子爵が帰れと仰有(おっしゃ)る迄は、初めから居る積りです。それに競争が済んだから、又居心が好く成りました。オホホ。』
 松子『そう仰有って下されば私も心が休まります。』

 此の夜松子は、ほとんど梅子とのみ話て居た。葉井田夫人は早く退いた。草村夫人はもう、瓜首の機嫌を取る必要も無く成ったので、今まで一晩に必ず二三度は発して居た、『ねえ博士』と云う語も忘れた様に棄ててしまい、子爵とのみ話して居た。

 夜更けて解散と為った後、松子は自分の居間に退いたけれど、眠る気に成らない。今まで充分に、自分の嬉しさを味って見る暇が無かったが、今初めて暇があった。独り二階の廊下に出た。

 月は無いけれど晴れた空に、無数の星が燦(きら)めいて居るのは、丁度物など考えのるに、誂(あつら)え向き《まるで誂て作ったように、前からの希望にぴったり合って居る様子》の夜景である。

 向こうの空に隈(くま)を取って、黒く聳(そび)えて見えるのは、此の家の領地の果てである。彼所(あそこ)までも我物になるかと思うと、天に在る星の数々も、我が領地の物の様な気がせられ、胸も胖(ゆたか)に心も広がり、暫(しば)しは恍惚として居たが、此の領地を誰と共に支配するかと思えば、無論我が身の夫たるべき弓澤民雄である。

 オオ民雄の事を、早く子爵に打ち明けなければ成らない。忘れて居た訳では無いけれど、その暇を得なかったのだ。明日は朝の間に打ち明けよう。もう母としても、異存は無いで有ろうけれど、云えば又、何の様に遮られるかも知れない。

 先ず子爵に打ち明けて、母にはその後で話せば好い。けれど子爵は何の様に思われるで有ろう。平民主義と云う民雄の事だから、或いは、お歓び成さらぬかも知れない。又民雄も此の事を聞き、何の様に思うだろう。

 幾等自分の腕一つで身を立てるのを、理想の様に思って居ても、まさか妻が英国屈指の大金持ちと為る事を、怒りもしないだろう。但し、弓澤と云う自分の苗字を捨てて、妻の苗字を名乗ると云う事に、同意をして呉れるだろうか。

 若し子爵の方が、民雄の方に故障が有って、折り合いの附かない時は何うしよう。その時は仕方が無い。此の家を捨て、民雄に就(つ)くのだ。此の家を捨てるのは残念でも有るけれど、あれほど心の美しい梅子さんに譲るのだと思えば断念(あきら)め易い。

 そうだ何ももう惑(まど)い煩(わずら)う事は無いと健気にも思い定めた。


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