hanaayame41
椿説 花あやめ
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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四十一 爾(そう)してアノ急進主義
我が娘には、成るべく当人の気に合った婿を持たせ度いとは、通例親たる者の心である。子爵もそうは思うのだ。松子ならば決して末の見込みの無い様な男を、夫に持つ筈は無いから、唯だ当人の好みに任せて置いて安心だと、実は此の様に思って居た。
けれど弁護士、イヤ弁護士にせよ何にせよ、職業の収入で世を渡る様な身分の人が、当家の婿に成れようとは思いも寄らない。兎に角、当家と略(ほ)ぼ似寄った身分の人で無くては成らない。そうで無ければ世の同族から笑われる。
第一当家の面目に関するのだ。
『我は我が有を有とす。』
と云う一家伝来の金言は、決してその様な意味では無い。
子爵の今の言葉にこの様な心が現れたから、松子は早や失望して、
『貴方が賛成して下さるかと思いました。』
と少し恨めしげな言葉を洩らした。
子爵『賛成の出来る限りは賛成します。併し家柄身柄と云う事も考えなければ成りません。』
確かに民雄の家柄身柄が低過ぎるとの意を示すのだ。爾(そう)して更に、
『何う有っても、その民雄とやらを捨てる事は出来ませんか。』
松子は確かな言葉で、
『ハイ出来ません。』
と言い切り、更にその上に、
『こうなると多分、相続の事もお考え直し成さらなければならないと思いますが、爾(そう)ならば何うか、少しも私しへお気兼ね無く、爾(そ)う仰有って戴きましょう。』
民雄の為には、此の家の相続を捨てるのも厭わないとの心がはっきりと分かって居る。
全く子爵は呆れる様に驚いた。けれど良く松子の気質を考えると、成るほどこうで無くてはならない。自分の守る所を変ぜぬと云う気象が有ればこそ、当家を相続する事も出来るのだ。子爵は顔に手を当てて考え、殆ど独り言の様に、
『勿論その様な事情が有って見れば、多少の局面が変じてきます。』
相続の事を、考え直さなければ成らないのかも知れないとの気も動いた。
松子『それにもっと都合の悪い事が有ります。民雄は自分の苗字を捨てて、当家の姓を名乗る事を承諾しますかしませんか、それも分かりません。』
此の一語が子爵の心には異様に響いた。
広い此の英国に、当家より上の貴族ならば兎に角、下の身分の者で、自分の苗字と当家の姓とを取り替えるのを、否と云う人が有ろうとは思われない。それを何うだか分からないとは、何の様な男だろう。
若しも子爵が、唯だ感情にのみ走る人ならば、此の語を聞いて、多少腹立たしく感ずるかも知れない。けれど子爵の心には、真に一家千歳の利害ほど重い者は無い。その上に、思い遣りも深くて、万事を極々公平に考える気質である。
若しもそれほど気位の高い男なら、或いは又と得難い婿では無いだろうかとも思った。得難い者だったら、益々得たいと云う心が起こるのが通例の人情である。何と返事を仕ようかと稍(やや)久しく躊躇した上、
『貴女は私へ義理が有ると思いますか。民雄に義理が有ると思いすか。』
松子『それは両方へ義理が。』
子爵『イヤ、一方に従わなければ成らない場合となったらば。』
松子は少しも猶予しない。
『それは民雄の方が先ですから、先な方へ従うのが当たり前だと思います。』
子爵の目には却(かえ)って松子の値打ちが、一段も二段も上がった。
松子は、言い出したからには、云う丈の事を、全て云ってしまわなければ成らないと信じて居る。
『民雄は普段から、弓澤と云う自分の姓へ、自分の力で光を添へるのを、何よりも大事だと心得て居るのです。爾(そう)してーーーー。』
と言い掛けたが、流石に云い出し難い様に口籠った末、又思い切って、
『爾(そう)してアノ急進主義とか申しまして、貴族は嫌いだと云っています。』
凡そ英国の貴族に取り、急進主義と云うほど恐ろしく聞こえる言葉は無い。それはその筈である。貴族的保守主義に根本から反対するのだもの。
子爵は、
『エ、急進主義』
と云ったまま語が塞(ふさ)がった。
松子『ハイ他日代議士と為って下院に出て、必ず平民主義の為に畢生(ひっせい)《一生》力を尽くすなどと云って居ます。』
殆ど貴族廃止に尽力すると云うのも同様である。子爵は漸く落ち着いて、
『私はナニ、単に急進主義と聞いた丈で、身震いをする様な世間の貴族的守旧家とは、意見を同じくは仕ませんけれど、兎に角、我は「我が有を有す」と云う、一家の金言を捨てる事は出来ません。貴女の云う所で察すると、その弓澤民雄氏には、此の金言の如きは何の感じをも、起こさせるに足りますまい。却って可笑しく聞こえる程でしょう。』
松子『ハイ、爾(そう)かもしれません。』
子爵は熱心に首を突き出し、
『貴女は彼と許嫁の約束を、お取り消し成さい。ナニ穏やかに、公明正大に。取り消す道は私から瓜首へ、相談すれば幾等も有ろうと思いますから。エ、取り消す事は出来ませんか。出来るのでしょう。そう成さい。』
松子『イエ、イエ、イイエ、私は命に替えても、それは出来ません。』
松子の此の言葉には、少しの裕(ゆと)りも無いと云う者だ。
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