hanaayame42
椿説 花あやめ
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
since 2022.8. 15
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四十二 圓(まる)く話が
アア、『命に替えても』
云うは易くして行うは難しとは、此の語である。併し松子の言い切る口調の確かな所を見れば、真に『命』に替えてもとの決心が有るらしい。此の女なら成るほど此の決心を守るかも知れないと、子爵は感心しつつ見て取った。
併し困った次第である。子爵は当惑に耐えられない様に、首を垂れ、片手で額を抑えて居るが、頓(やが)て、
『広い世界で貴女が特にその様な人を選ぶとは、急進家を選ぶとはーーー。』
松子『急進家を選んだのでは無く、弓澤民雄を選んだのです。矢張り前々から運が定まって居たのだと思います。』
子爵『運が定まって居ると云って、貴女はその人の為なら、全く此の家を捨てますか。捨てるのを厭(いと)いませんか。』
松子『ハイ、厭(いと)わないと申せば余りに恩知らずの様に聞こえますが、恩を知らないのでは有りません。此の家を相続するすると云う事は、心底からの願いで有りますけれど、民雄の方との約束が先ですから、その方へ従わなければ成りません。』
子爵の感心は益々深くなる許りだ。真に男まさりとは、此の松子である。こうも確かな心を以て此の蔵戸家の女主人と為れば、何れほど立派に一家の名誉を支えて行く事だろう。
『貴女の言う事は最もですけれど、私に取っては実に不幸です。何うして好いか少しも考えが附きません。』
子爵は又思案に沈んでしまった。
松子も思案に暮れて居たが、漸(ようや)く思い附いた様に、
『お願いですから、何うか弓澤民雄をお招き成(なす)って、貴方が直々に当人の気質などを良く御覧下されませんでしょうかか。』
子爵は顔を上げて、
『成るほど、それは出来ない事でも有りません。此の場合に及んでは、兎も角も試みるべき手段でしょう。けれど私は何うあっても、貴女が弓澤氏に感心する程に感心する事は無かろうと思います。それは今からお断わり申して置きます。』
松子は熱心に、
『民雄は此方(こちら)へ来る、虎池大佐や丸亀男爵やその他の紳士達とは、全く質(たち)が違って居ます。アノ様に口軽では有りませんけれど、男らしくて、誰にでも感心せられます。多分、貴方が、成るほど此の男なら好いと仰有って下さる事に成ろうと思います。』
成るほど是ほど信じて居ればこそ是だけの熱心にも為れるのだ。
子爵『イヤきっと有為の男子だろうとは、先刻から貴女のお言葉を聞いて、思って居ますが、併し一つ何うしても感心《立派なものや行動に対して心を動かす》出来ないと思う所が有ります。それはその急進主義です。』
松子『でも民雄の口から政治論を聞きますと、急進主義ほど好い者は無い様に感ぜられます。少しも世間の人の恐れる様な、その様な急進主義では有りません。』
子爵は当惑の中で少し笑みを催おした。
『私しをまで急進主義に改宗させるのでしょうか。』
『イイエ、爾(そう)では有りませんけれど、日頃から自分では、道理ある言葉には、何れほど辛くても従わなければ成らないと云って居ますから、若し貴方のお言葉が御尤(もっと)もなら、民雄の方が改宗するかも知れません。
決して人情を知らない様な、荒々しい気質では有りませんから、お逢い下されば、何とか貴方と民雄との間で、圓(まる)く話が収まろうと思います。』
実に最(もっと)もな考えである。確かに、女ながらも大家を治める丈の思慮に富んで居ると、子爵は又感心の度を深くしつつ、
『兎に角、私は一応考えて、その上で、招くか招かないか、貴女へお返事致しましょう。それに就(つ)いては貴女の阿母(おっか)さんへも、一応相談してみなければ。』
母へ若し相談すれ、母が何れほどか民雄を悪く云う事だろうと、松子は少し心配した。けれど当然の事である。
『ハイ何うかそう願います。けれど母は又た、世の中に民雄ほど憎い男は無い様に思って居ますから、何うか孰(いず)れにしても、貴方が直々に本人を御覧下さる様に願います。』
子爵『ハイ兎に角も、母御にお目に掛かった上で定めましょう。』
* * * * *
* * * *
松子が退くと同時に、母草村夫人の許へ、子爵から迎いの使いが行った。夫人は何用だろうと怪しんだけれど、松子が話に来ないのだから見当が附かない。勿論民雄の事などとは思いも寄らない。
何方(どちら)にしても、もう悪い相談の有る筈は無いのだから、事に依ると私に特別に隠居料を呉れると云う相談かも知れない。そうだ、何事にも良く行き届く子爵だから、年々幾等幾等の手当てを遣るので、老い先を気楽に送って呉れと。
アア全くそれに違い無い。
成るほど此の問題が猶(ま)だ残って居ると知ったら、引き続いて瓜首の機嫌を取って置かなければ成らない所であった。けれどナニ、もう極まった者なら仕方が無い。併し余り喜んでお受けするのも可笑しいから、一応は辞退しなければ、万事と釣り合いが取れないなど、何事も取り越して、それぞれと、細かに考える日頃の癖で、此の癖が何時も失望の元に成るのだけれど、自分ではそうは思わない。
是れが駆引きの上手と云う者で、自分の身上(しんじょう)だと心得て居る。先ず一切の思案が定まって、子爵の居間に入った。
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