巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 17

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          四十四 両為(りょうため)の計らい

 真に身も世も無い様に泣くので、流石に子爵も気の毒になった。出来る丈の我慢は仕て、此の夫人にも松子にも両為(りょうため)と云う様に計らい度い。
 子爵は夫人の泣き声の稍(や)や鎮(しず)まるのを待って、

 『併(しか)し夫人、貴女は非常に仕合わせと思わなければ成りません。
 夫人『松子のあの気性が何で宝です。』
 子爵『昔から烈女とか貞女とか。歴史の上にまで名を留めるのは、皆あの通りの気象です。愛と云い義務と云う一念で、何の様な利害や苦労にも心が迷わず、是で無ければ真の女では有りません。』

 夫人は実に意外に感じた。何うやら子爵の言葉には、未だ脈も有るかの様な所も有る。
 夫人『では松子をお咎め成されはしないのですか。』
 子爵『ハイ、却(かえ)って私の松子さんに対する尊敬は百倍も増しました。けれど、何しろ遺憾なのは、その民雄と云うのが迚(とて)も私と調和が出来相に思われませんから。』

 夫人は全く未だ脈が有ると見た。此の様子なら有るも有るも、大有りだ。何でも子爵が一歩でも此の上の思案を定めない中に何とか運動しなければ成らないと、非常の場合だけに非常な決心と勇気とを起こし、

 『子爵、子爵、何うか孰(いず)れとも御決心を為さらずに、暫(しば)し私にお任せを下さい。何とか私が松子を説きますから、叱りますから。諭(さと)しますから。』
 中々念が入って居る。

 子爵『イヤ貴女が何とお諭し成さっても、今更松子さんにその民雄を捨てさせると云う事は、それは到底できないでしょう。それよりも私は、兎に角、弓澤民雄と云うのを、此の家へ招いて逢って見ようかと思います。若し民雄が真に人物で、私と調和する事が出来たなら、何事も圓く治まる訳ですから、爾(そ)うです、民雄の人と為りを良く見究めずに心配するのは、順序が間違って居るだろうと思います。』

 何たる寛大な有難い言葉だろう。けれど草村夫人は思い込んで居る。迚(とて)も民雄と此の子爵と、調和する事は出来ない。民雄と云う奴は、あの様な失敬な、憎らしい、横柄な男だものと。自分の憎い奴は誰にも憎い者と思い、何しても松子を思い直させせる外は無いとの決心が、愈々(いよい)よ強くなる許りである。

 『何うか子爵、少しの間、御決心を為さらずに、私へお任せ下さい。イイエ松子が承知しないと云う筈は有りません。』
と呉々(くれぐれ)も子爵に請い、子爵が、
 『ハイそれならば一切の決定をば、貴女からお返事の有るまで待ちましょう。』
と答えた。

  何でも松子を説き伏せなければ成らないと、大決心を以て子爵の前から退いたが、併し良く考えて見ると、今まで松子に、民雄を思い切らせようとした事は、幾度であるか知れない。その度に松子が毛ほども屈しなかった事を思うと、何うやら覚束なく成って、大決心も揺らぐ様だ。

 之を揺るがせては成らないと、自分の気を引き締めて、尋ねて行くと、松子は縁側の所で梅子と連れ立ち、是から氷滑りに出かけようと云う。

 此の時は二月の初めで、真冬の寒い盛りなんだ。鉄裏の狭い長い船底の靴を履(は)いて、池の氷の上に滑る事は、英国人が男女とも、寒中第一の戸外遊戯として楽しむ所で、今しも梅子の方が自分で池の氷を検(たしか)めて来て、是から両人で出直すのである。

 婦人の中には随分、外の寒い風に吹かれると、顔の色艶が悪く荒らびる質(たち)も有るけれど、梅子は爾(そう)で無い。寒さにも暑さにも、何う変わっても益々美しく見える許り、真に天性の美人に生まれ出て居るのだろう。

 白い頬の真ん中の当たりに、ポッと薄紅を差した様に、赤らんだ様子などは活画とも云い度い程で、流石の草村夫人も、此の時ばかりは我が娘より美しいと、早や嫉(ねた)みの様な心が出た。

 爾(そう)してその心と共に三様の考えを起こした。その一は唯だ此の女が松子の大敵である。是さえ無ければ、松子に多少無理が有っても、此の家の相続権を取り逃がすと云う事は無いだろうけれど、唯此の女の有る許りで、心配が増して来るのだ。

 その二は松子が此の女と共に、氷滑りに行くのは非常な考え違いである。若し突き落とされたなら何うするか。その三は寧(いっ)そ自分が氷滑りに行って、此の女を突き落として遣ろうかしらと云うのであった。

 随分この三をさえ行い兼ねないで有ろうけれど、真逆(まさか)に決心と云う程には至らず、
 『梅子さん、今朝は貴女お一人で滑ってお出で成さい。松子には一時間ほど私が用事が有りますから。』
と、体よく言って松子を招き、自分の部屋へ連れて行った。

 爾(そう)して何の様な事を云ったかは、詳しく記す迄も無い。無論泣くのと脅すのと哀訴嘆願するのと三つの道具を、手品師の様に使い分けたけれど、その効能の無かったのは、夫人がそのまま病気になり、子爵の許へ返事に出る事の出来なかったので、分かって居る。

 その上にもう一つの大不幸は、独り池へ行った梅子が、氷の薄い所とも知らず、踏み込んで池の底へ落ち入ったなどと云う間違いも何にも無しに、無事に池から帰って来た事で有った。爾(さ)も無ければ夫人の病気は、余ほど軽くなったかも知れない。

 松子の母への返事は、
 『若し阿母(おっか)さんが、その様に仰有(おっしゃ)るなら、直ぐに子爵へ相続の事を断り、梅子さんを代わりに直して、私は民雄さんの所へ逃げて行きます。』
と云うので有った。

 是ばかりは威かしで無い。本当に爾(そ)うする決心が見えて居たから、夫人の方が折れてしまった。
 子爵は愈々(いよいよ)決心して、此の翌日弓澤民雄へ招待の手紙を出した。何しろ松子が是ほどに見込んだ男だから、逢って見ると夫人の云う様で無く、意外に訳の分かった男かも知れない。

 果して本当に訳の分かった男ならば、よもや自分の妻と為る者へ、英国中で屈指と云われる大財産の相続権を、捨てさせる様なその様な邪見な事はしないだろう。大抵の事は双方で我慢して、折り合いが附き相な者だと、子爵は此の様にも信じて居る。



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