巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame49

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 22

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        四十九 次郎様、蔵戸次郎様

 話替って、ここは瓜首法務士の事務所である。主人瓜首真造は数ケ月来、蔵戸家の事にのみ暇を取られ、外の用事が沢山溜まったので、今日は朝から一生懸命にそれ等を取り運んで居た。

 『ヤッと先ず子爵と民雄との間の折り合いも附き、俺が顔を出すにも及ばない事と為って安心した。』
とは彼が幾度も繰り返した独り言である。

 全く安心したのだろう。彼の為す事には多少の避難は有るとしても、正直と熱心とは人よりも優れた男で、今まで蔵戸家の事柄が、殆ど自分の家の事柄の様に気に掛かって居た。それが一段落附いたのだから、重荷を下ろした様に思うのも無理は無い。

 彼の用事と云うのは矢張り、依頼されている事件に就いて、書類を調べるのである。朝の八時頃から初めて、二時過ぎまでもかかり、一日分と定めた丈を、大方調べ終わった頃、部屋の外から戸を叩く者が有った。彼は依頼者の一人だろうと思い、
 『サア此方へお入り成さい。』
と答えたが、やがて入って来る人の姿を見て忽(たちま)ち振るい上がった。

 椅子から転がり落ちなかったのが不思議だと云うべき程だ。眼を真ん丸に張って、呆れた様に口を開いた。けれどアッと叫ぶ声さえ出ない。何故にこれ程驚いたのだろう。

 入って来たのは唯だ若い一紳士である。毛の着いた外套の襟を、掻き下ろして出した顔の青い事、衰いて居る事と云ったら、殆ど幽霊かと思われるが、今は昼間の二時だから、幽霊にしては時刻が早い。けれど彼は幽霊の歩みかと思われる様に、揺(ゆ)ら揺らとして、瓜首の傍に寄り、静かな声で、

 『アア貴方にさえ、誰だか分からないほど、私の姿は変わったでしょうか。直接に家へ行かないで好い事をしましたよ。』
少しも声に力が無くて、多少の悲しみをさえ帯びて居るかと疑われる。瓜首はヤッと声が出た。而も度はずれに大きな声が、

 『ヤ、貴方はーーー、貴方は、誰ですか、墓の中から出て来たのでは無いのでしょうね。』
 相手は矢張り元気の無い調子で、
 『先ア墓の中から出て来たのも同じ事です。貴方は私しを知りませんか。』

 知らぬでは無い。余り意外だから、知って居ても爾(そ)うと納得が出来ないのだ。彼は例の徳利を忙しく振って、立ち上がって、客の肩に手を掛けて、斜め下から覗き上げた。
 『アア、爾(そう)だ、爾だ、矢張り爾だ、次郎様、蔵戸次郎様、次郎様では有りませんか。』

 客『次郎と見えるなら次郎でしょう。私は、貴方から此の様に冷淡に迎えられようとは、思いませんでした。』
 瓜首『でも次郎様は、イヤ貴方は溺死なさったでは有りませんか。』

 客『ハイ自分でも溺死の積りであったのが、不思議に助けられました。』
 瓜首『是は不思議だ、実に不思議だ。助かる筈が無い様に思われましたのに。』
 遥々(はるばる)と、而(しか)も非常な苦労して帰って来て、此の様に謂(い)われては、余り心持ちがが宜しく無いだろう。

 『私は病気ですから、それに酷(ひど)く疲れて居ますから、一時間ばかり寝かして下さい。その上で無くては、話す気力も有りません。ここまで実はヤッと来たのです。ナニ別室には及びません。此の部屋の長椅子で宜(よ)いのです。毎(いつ)も運動の帰りに身を横たえた長椅子が、友達の様に思われます。』

と云いながら、蹌踉(よろめ)く様に長椅子の所に行き、身を投げ出したのは、成るほど瓜首の目に好く覚えの有る次郎の癖である。
 彼れは、
 『眠る前に一言聞き度いのは、阿父(おとう)さんは御無事でしょうねえ。』

 漸(ようや)く瓜首は我に帰った。今までは呆気に取られて、夢中で居たのだ。幾等徳利を振っても、追い付かなかったのだ。
 彼は忽ちに、遽(あわ)てふためく様な状態と為って、
 『次郎様、イヤもう次郎様では無い、貴方が本当の御当主だ、本当の蔵戸子爵です。子爵、子爵』

 打って変わった様な言葉に、次郎は驚いた。自分が子爵とまで言われるからは、扨(さ)ては父上はもう亡くなられでもしたのかと疑う様に、寝かけて居た身が跳ね起きて、
 『エ、父上は何うか成さったのですか。』

 瓜首『ハイ何うか成されました。確かに何うか成さったのです。けれど御心配に及びません。未だ御無事ですから、併し先ア、貴方が生きてお帰り成さったのは、何より目出度い事では有るが、是は先ア大変な事に成り相だ。草村夫人が何の様な事をするだろう。』

 次郎は父が無事と聞き、
 『アア父上が無事ならそれで宜しい。少し私は眠りますから。』
 再びその身を横たえたのは、如何にも疲れに耐えられなかったのだ。
 瓜首『寝るのは後にして、先あ、何うして貴方が助かったか、其れを掻い摘んで聞かせて下さい。』
 次郎『其れは今日のタイムズに一寸出て居ます。』
と云って、外套の衣嚢(かくし)《ポケット》から、自分が汽車」の中で読んだ新聞を投げ出して置いて、目を閉じた。

 瓜首は急いで披(ひら)き読み、
 『成るほど分かった、帆前船に助けられて、ニュージランドへ、其れでは今まで分からなかったのも無理は無い。けれど此の新聞を見ては、子爵もきっとお驚き成さっただろうが、驚けばここへ迎いが来そうな者だ、ハテな、ハテな。』

 云いながら又次郎の顔を見ると、先刻初めて見た時よりも、次第次第に昔の次郎の顔に成って、懐かしさと嬉しさが自分の胸へ湧き出て来る。幾等私情を禁物として居る法律家でも、自分が曾(かつ)て抱きもし、撫で摩(さす)りもした主人同様の家の息子が、死んだと思ったのに助かって帰って来て見れば、嬉しく感じない訳には行かない。

 彼は其の寝顔を倩々(つくづく)見て、
『アア、流石に未だ子供だなあ。もう眠って了(しま)った。併し此の様子では、余ほど疲れて居ると見える。可哀相に、自分で何だか、病気だと云った様だった。爾(そう)だ、非常に顔色が悪い。衰えて居る。折角生きてここまで帰って、気落ちがして若しもの事でも有れば。

 爾(そう)だ、医者を迎えて置こうか。兎も角も、目の覚めた時に飲む様に、葡萄酒を持って来て置こう。』
感心なほど気の附くのは、矢張り真心のある男である。



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