巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame50

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 22

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         五十 何を見たのだらう

 眠った次郎の枕許で、瓜首は看護人の様に番して居た。
 次郎の眠りは穏やかで無い。彼は身体の何所かに病気が潜んで居ると見え、幾度か寝返りをし、又悶(もが)いたり、爾(そう)して或る時は、

 『オオ兄さん、兄さん、私も行くから待って下さい。』
などと叫んだ。全く意味も無い寝言では有るけれど、兄の太郎が溺死して、自分一人丈助かったのを、申し訳ない様に思って居る様子が察せられる。真に彼は兄思いの気質であった。

 番しながら、瓜首は様々な事を思った。何しろ、次郎が助かって居るのは有難いけれど、不意に此の事を子爵の耳に入れたら、子爵は気絶なさるかも知れない。嬉しさに驚くのは幾等驚いても構わないと云う様な者の、子爵の此頃の健康は、殆ど髪の毛で重い石を吊るして居る様な者だ。

 何時切れてしまうかも知れない。健康な此の身でさえ、出し抜けに次郎の現れた時には、度を失って魂も肝も潰れる程であった。況(ま)して子爵は非常に心臓が弱って居るという、医師の診断であったのだから、動悸でも打つ様な事に出会えば、その動悸の唯だ一打ちで打ち驚かされるのだ。

 アア目出度い事は目出度いけれど、何うして子爵の耳に入れようと、胸に支えるほど当惑したが、やがて思案が着いた様に、
 『アア是れは密かに葉井田夫人に話し、夫人から物柔らかに子爵へ知らせて貰い、爾(そう)して其の上で父子の対面をする外は無い。』
と呟いた。

 けれど、其の後は何うなるだろう。何しろ大騒ぎに違いない。既に相続人の尽きた者と定まって、後へ松子と云う立派な相続人が出来、弓澤民雄と云う、其の婿まで定まったのだから、之れが若し、松子とも梅子とも相続人の定まらない中で有ったら、別に面倒も無いけれど、アア何うしたら好いだろう。

 面倒な事と云えば、一々此の俺に落ちて来る。
 人に相続権を与えて、嬉しがられる様な周旋は好いけれど、与えた相続権を取り返して、恨まれる様な仕事は余り有難く無い。難しい事には成った者だ。

 色々考える間に次郎は目を覚ました。
 『アア何故、私が生き残ったのでしょう。何故兄さんが生き残らなかったのでしょう。』
と、彼は起き直るや否や云った。矢張り夢の続きが心の中に残って居ると見える。

 瓜首は用意して置いた葡萄酒を彼に与え、
 『もう其の様な事を思っても仕方が有りません。何しろ貴方の助かったのが何よりも目出度いのです。サア之をお上がり成さい。爾(そう)して助かったお話を伺いましょう。』

 次郎は少し葡萄酒を嘗(な)めたが多くは飲まない。
 『私は未だ病気が有るから、何にも飲み食いする気が起こりません。』
 瓜首『病気が。ではニュージランドで瘴霧(しょうむ)に中(あ)てられたのでしょうか。』

 問いつつも気遣った。彼は溺死から助かって、爾(そう)して病死する為に帰京した様な者では有るまいか。
 次郎『何うか私を家へ早く連れて行って下さい。阿父(おとう)さんと葉井田夫人の顔が見たいと思います。』

 何だか云う事が心細い。
 瓜首『連れて行って上げますとも。ですが余り阿父様を驚かせてはいけませんから。ハテな、何うしよう。アア爾(そう)だ。私と一緒に箱馬車の戸を閉じて、人目に触れない様にして行きましょう。

 若し下部(しもべ)などが見て、驚いてお屋敷へ馳せ返り、家中を騒がせる様な事にでも成るとーーー。』
 次郎『ハイ成る丈騒がせない様にして下さい。』
 瓜首は直ぐに退き、馬車の用意を命じて置いて、又次郎の傍へ来た。

 『ですが貴方の病気と云うのは何の様です。』
 次郎『救い上げられて間も無く熱病と為り、ニュージランドへ着いた時まで、私は夢中でした。船長の話には、プリンス号の沈んだ後へ通り合わせ、直ぐに救助の為、小舟(ボート)を下ろしたけれど、間に合わず、僅かに死骸の様な者二個を拾い上げた相ですが、其の一個が私です。

 一個は倫敦(ロンドン)の商人で、矢張り私と一緒に帰りました。其の人の方は先ず無事でした。私の方は息は吹き返したけれど、今云う通り熱を発して、到底助かるまいと思った相です。彼の地に着いて後も、病院へ入れられ、少しは好く成りましたけれど、好かったり悪かったりで、医者が風土が変わらなければ、全快はしないと云われました。

 其の中に今の船が豪州を廻り、再びニュージランドへ寄りましたから、船長に頼んで又、載せて来て貰ったのです。幸いに溺れた時持ち合わせて居た金子が、無事に胴着の中に有った為、船賃だけは払う事が出来ました。けれど船の中で又病気が再発し、到底助からないと思いましたが、此の国の土を踏むと勇気が出て、漸くここまで帰りました。』

 実に痛々しい次第である。
 瓜首『手紙は出しませんでしたか。』
 次郎『手紙を幾通も出しましたけれど、私の帰った船まで便船が無かったのですから、一纏めに成って明日頃父の許へ着くのでしょう。』

 瓜首『成るほど爾(そ)うでしたか。運の悪い所へ連れて行かれた者ですねえ。』
 云う中に、馬車の用意が出来た。何しろ早く屋敷へ連れ行き、充分に療養させなければ、折角助かったのが再び水の泡と為ってしまう恐れが有る。

 直ぐに瓜首は自分と共に扶け載せ、静かに馬車を進めたが、留守中の変わった子爵の有様などは、父上からの話の種に取って置くのが好かろうと云って、何にも云わない。

 其の中に馬車は蔵戸家の門の近くまで進んだが、次郎は物に驚いた様に、
 『オヤ』
と叫んだ。
 瓜首は何事かと好く見ると、次郎の目は馬車の窓から斜めに、門の横手にある、茂った槐樹(えんじゅ)の陰の方へ注いで居る。彼は何を見たのだろう。


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