巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame51

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 24

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         五十一 待って下さい、待って下さい

 『アレ、彼(あ)れは誰です。誰ですか、瓜首さん』
と次郎は叫んだ。誰でも無い、梅子なんだ。
 梅子は門の傍らにある、槐樹(えんじゅ)の陰で、駒鳥に餌を遣って居る。是は葉井田夫人の大事な鳥で、梅子に其の飼い方を頼んである。

 梅子は大切な任務の様に心得て、朝晩の寒暖などを考え、或る時は樹の蔭へ、或る時は日向へなど、籠のまま種々の所へ持って行くのだ。瓜首は簡単に答えた。

 『あれは春川梅子さんと云い、遠い親類の方です。』
 詳し事は子爵の話の種に取って置くが好かろうと、中々綿密に注意している。
 次郎『エ、梅子、春川梅子、大層美しいーーー名前ですね。何うしてここに居るのです。』

 瓜首『貴方は爾(そ)う首を出してはいけませんよ。阿父(おとう)様に逢うまでは、誰にも顔を見られない様に成さらなければ。』
 次郎は残念そうに首を引きつつ、
 『ですが何うして彼(あ)の様な方が。』

 瓜首『子爵が招いて、久しくお屋敷に逗留させてあるのです。詳しい事は、子爵がお話し成さるのでしょう。』
 云う中に梅子は、此方の馬車を見た。誰にでも隔ての無い気質だから、或いは籠を樹に掛けて走って来るかも知れない。

 来られては面白く無いのだから、先ずれば人を制すと云う兵法で、瓜首は馬車から降り、自分で梅子の傍に行った。
 『梅子さん、今日は皆さんは何の様な御様子ですか。』
 梅子『今朝タイムズ新聞が無く成ったとかで、子爵が大層お力落としの御様子でした。其の外には何事も有りません。』

 タイムズが無く成ったとは、彼(あ)のプリンス号の事が出て居たので、誰かが何うかしたのだろうかと怪しんだけれど、充分には合点が行かない。梅子は馬車の方を見て、
 『此の様な好い天気に、何故アノ様に馬車へ蓋(ふた)など成さるのです。』
と問うた。

 瓜首『ハイ実は誰にも覗かれ度く無い品物を、積んで居るのです。左様なら。』
と、梅子が馬車の傍へ来ない様にまじないして、爾(そう)して再び馬車に帰り、玄関の方を指して進めた。外の人なら今の言葉を聞き、猶更(なおさ)ら馬車の中を、覗きたがるかも知れないけれど、梅子に限っては、決して其の様な事は無いと、瓜首は見抜いて居るのだ。

 頓(やが)て玄関の近くへ行くと、家の内から音楽の音が聞こえ、又引き続いて若い女の謡(うた)う様な声も微(わず)かに聞こえた。次郎は又怪しんで、
 『私の居た時とは、何だか様子が違って居ます。誰が謡って居るのでしょう。』

 瓜首『是も遠い親類で、矢張り子爵に招かれ、久しく逗留して居る、草村松子と云う方です。委細の事は父上からお聞きなさい。貴方は決して首を出してはいけませんよ。』
 斯(こ)う云って次郎を隅の方へ小さく成らせて置き、自分だけ降りて中に入り、先ず家扶(かふ)に逢って、葉井田夫人を子爵の居間へ迎えさせた。

 此の居間を我が物顔に使うのは少し専横であるけれど、是くらいの事は、止むを得ない場合だと信じて居る。全く止むを得ない場合である。爾(そう)して何事かと怪しみつつ入って来た葉井田夫人を座に着かせ、

 『夫人、夫人、非常な事件が湧いて来ましたから、決して肝を潰(つぶ)してはいけませんよ。』
と幾度も念を押して置いて、次郎が生きて居る事を言い出した。夫人は最初は信じる事が出来ず、次には信じる事が出来て打ち驚き、最後には喜んで泣いた。

 瓜首『サア貴女さえ其の通りですから、之を子爵へお知らせ申すには、余ほど大事を取らなければ成りません。若し痛く驚かせ申して、動悸の為に心臓に異変を起こし成さる様な事が有っては、大変ですから。何うも是は、不器用な私には出来ません。貴女がお引き受け下さらなければ。』

 何が何でも子爵へ、直ぐに知らさなければ済まない訳だと、夫人は感じた。
 『宜しゅう御座います。私が引き受けます。ここへ子爵に来て貰いましょう。』
と云い、又家扶を呼び、其の旨()むねを命じ、爾(そう)して子爵の来る迄に、更に細かな所を一々聞いた。

 其の中に子爵は別に怪しむ様子も無く入って来られた。今まで松子の音楽を聞いて居たのだ。葉井田夫人は何気なく、
 『今朝貴方はタイムズが無く成って、酷(ひど)く残念な御様子でしたが、今瓜首さんから、其のタイムズに出て居た事柄を
聞きましたよ。』

 子爵『何の様な事柄です。』
 夫人『あのねえ、妙な事件ですが、電報蘭にプリンス号の乗客の中で、二人だけニュージランド行の帆前船に、拾い上げられた人が有る様子だと、出て居た相です。』

 極めて自然な、何事も無い言い方だけれど、子爵は早や顔の色を変え、
 『エ、プリンス号の乗客が二人だけ助かって帆前船に、爾(そう)して其れは何者ですか、何者ですか。』
と云って、夫人と瓜首との顔を熱心に眺めた。

 夫人は恐れた、是でも自分の云い方が荒々し過ぎたかしらと。子爵は二人が答えない様を見て、
 『余所の人が二人助かっても仕方が無い。別に此の家へは関係が無いのだから、アア矢張り今朝、新聞を見ぬ方が好かったかも知れない。見れば詰まら無く心を痛める所で有った。』
と云い、失望だか落胆だか、殆ど見るのさえ気の毒な様に、淋しそうな笑みを浮かべた。

 夫人の目には又涙がにじみ出た。
 瓜首『ですが、其の助かった者が、何者だか早速問い合わす必要は無いでしょうか。』
 子爵『有りません、有りません。若し当家の子なら、問い合わさなくても帰って来るから。』

 アア問い合わせて失望するのが恐ろしいのだ。
 夫人『若し其の二人の中に、当家の子が一人居合せたら何うでしょう。』
 子爵『夫人、冗談にも其の様な事を云って下さるな。』

 夫人『アノ併(しか)し居ないとは限らないでは有りませんか。萬々一、若し居たと分かれば、貴方は何う成されます。お驚き成って御病気に障(さわ)りましょうか。』
 夫人の言葉は妙に冗談らしく無く、熱心な所が見えるので、

 子爵『爾(そう)ですねえ、若し家の子が一人でも居ればーーー。』
と言い掛けたが、急に何か心へ徹(こた)える《影響する》所が有ったと見え、
 『待って下さい、待って下さい、私は胸が騒いで、イヤ爾(そ)う考える丈でも何だか、心が転倒する様で、アア、少し胸を落ち着けてから考えましょう。』
と云い、胸を幾度も撫で下ろした。

 夫人は本当に気遣(きづか)った。爾(そう)して強いて冗談の様に打ち笑い、
 『オホホホホ、若し一人で居れば、貴方は驚きの余りに、心臓が破裂するでしょうか。』

 子爵『イエ、イエ、其の様な嬉しい事なら幾等打ち驚いたとて、心臓には徹(こた)えません。徹えて死んでも構いません。』
 宛(あたか)も死と云う、強敵を引き受けるとでも云う様に、両手を膝に突っ張って身構えた。



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