巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame54

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 27

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        五十四 愈(いよい)よ非常な場合

 幾ら草村夫人が小ざかしく考え廻したとしても、真逆(まさか)に当家の次男が生き残って居て、早や既に此の家へ来て居ようと迄は、思う事は出来ない。けれど子爵の喜ばしい顔色を見ると、何だか気遣わしい。堪(こら)え難いほど気遣わしい。

 子爵は先ず笑いながら、誰に向かってとも無く云った。
 『私の身に取り、大変な事が出来て来ました。私しのみならず、皆様御一同に関係が有るのです。』

 大変とは云え、悪い大変では無くて、嬉しい大変である事は言葉附きでも分かって居る。草村夫人は、愈々(いよいよ)非常な場合に成った様に感じた。常ならば直ぐに何か問返す所だけれど、問返して、若しも自分の栄耀栄華が、土台から頽(くず)れる様な事柄と分かったなら、何うしよう。言葉も出ない。息さえ継がない。唯だ子爵の顔を見詰めた。

 徐(おもむろ)に子爵は、一方の椅子に腰を下ろした。暫(しばら)く部屋中を見廻した。嬉しい事だけれど、言い出し難い。その中に民雄が尋ねた。

 『何の様な事柄です。兎も角も私し共は、貴方の御病気に、障(さわ)らない様な事柄である事を、祈ります。』
 子爵『ハイ障りはせずに、却(かえ)って病気の直る様な吉報です。』

 吉報、吉報、此の一語が草村夫人の胸へは、毒矢の様に徹(こた)《強く感じる》えた。子爵は語を継いで、
 『若し今朝のタイムズが紛失しなかったなら、何方(どなた)も今までに、略(ほ)ぼ推量が附くでしょうが、タイムズが無くなった為、皆様へは非常に意外に聞こえるでしょう。

 草村夫人は苦し気に呻(うめ)きの声を洩らした。外の人には聞こえなかったけれど。此の頃、絶えて『法律博士』との尊称を受けない瓜首の耳には聞こえた。彼は眼の隅(すみ)から草村夫人の様子を睨んで居る。

 子爵『今日まで当家は、取り分け私は、忌中に居る心持で有りましたが、今日から全く世界が晴れ渡った様に感じます。実は、溺死した筈の息子が、一人だけ不思議にも生き残って居ました。爾(そう)して今日、此の父の許へ帰って参りました。何うか皆様に喜んで戴かなければ成りません。』

 子爵は言い終わって嬉し涙に首を垂れたが、良(や)やあって挙げて見ると、我が前に松子が立って居る。その顔には真実の同情が現われて、爾(そう)して云った。

  『本当でしょうか子爵。オオ此の様に嬉しい事は有りません。私は真実にお歓び申し上げます。』
 何と云う美しい心だろう。此の家の息子が現われれば、自分は相続権を失うのに。その様な思いは少しも無い。

 恐らくは先の日、松子が当選した時、熱心に祝した梅子の心より外に、是ほどの真心は世界に例が無かろう。子爵は胸も塞(ふさ)がる様に感じつつ小声で、
 『だけれど貴女には、大変な損失に当たります。』

 松子『私の損失などに代えられましょうか。貴方の御身に幸福の来る事柄なら、私しは何でも嬉しいと思います。』
 全く腹の底から出る熱心さである。
 次に民雄が直ぐに立った。
 
『子爵、私しに取っては、更に一層の喜びです。松子が当家の相続権を失う事は、悔やまねば成りませんけれど、天然の相続人が現れたほど、目出度い事は有りません。
 私は是れで、自分の労力を以て、自分と妻との身を立てる様に成ったのを喜びます。子爵、子爵、貴方には、当家には天祐が添って居ます。』

 子爵は是にも深く感じ、
 『イヤ弓澤さん、貴方は全く人物です。必ず弓澤の姓は、貴方の日頃の目標の通り、貴族の姓より貴くなります。』

 一同の喜ぶ中に、草村夫人は全く聾啞と為った様である。恐れと驚きと失望と恨めしさとが、夫人の声をまで奪ったと見える。瓜首は少し心地よく思ったのか、背後から夫人の背を密かに突いて、
 『貴女もお歓びを申し上げなければいけません。』
と云った。

 子爵も促す様に、
 『草村夫人、貴女は未だお歓びを述べて下されませんが。』
 夫人は血を吐く思いで
 『ハイ、ハイ、お喜び申し上げます。』
とやっと云った。

 松子『ですが子爵、それはお兄様の方ですか、弟様ですか。』
 子爵『弟で、次郎です。』
 草村夫人は漸(ようや)く何か思い付いたように、
 『でもここへ顔を出さないのは、何う云う訳です。若しやアノ。』

 子爵『助かって今まで幾度も病気に成りました相で、病気の儘(まま)で帰って来ました。今は寝かして有りますが、晩餐の時には皆様へ、お目に掛かるでしょう。』

 病気と聞いて夫人の眼は物凄く光った。そのまま死んでしまえば好いと、思ったのは無論だが、事に由ると、それよりもっと深く考え、若し死なないなら、殺して遣るとまでに思ったのでは無かろうか。何しろ尋常ならない光り方であった。

 民雄『何の様な御病気でも、お家へ帰ったのだから、必ず治りますよ。』
 松子『若しお病気が重いなら、我々一同の熱心な看病と祈りとで必ず本復なされます。』

 草村夫人は膨れた顔で、
 『併し子爵、全く御当人に違い無いのですか。随分世間には他人の空似と云う事も有り、贋(にせ)物も多いのですから。』
 
 真逆(まさか)に贋物で無い者を、贋物と言做す積りでは有るまいが、贋物で有れば好いと思う心から、自然に此の様な疑いも起こすのだろう。子爵が返事しないうちに、瓜首はここぞと云う様に、大声に打ち笑った。

 『ハハハ是は可笑しい、次郎様が贋物なら、こう申す瓜首が瓜首真造の贋物です。』
 夫人の疑いを笑い消した。併し夫人は笑はわれるぐらいの事には驚かない。贋物で無いなら斯(こ)うと、何だか思い定めた所が有るらしい。



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