巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame56

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 29

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          五十六 飛んだ損害

 何の為に草村夫人は彼(あ)の様な恐ろしい書を読むのだろう。真逆(まさか)にその書から知識を得て、それを実地に用いると云う積りではあるまいけれど、或いは不平の余りに、多少取逆上(とりのぼ)せでもしたのでは無かろうか。

 葉井田夫人は此の様に思い、兎も角も、子爵の口から何とか草村夫人を慰めて遣る様にするのが好かろうと思い、間も無く子爵に逢ってその意を述べた。

 述べる中にも、彼(あ)の恐ろしい書の表題が目先にちらつき、又昨夜草村夫人が、図書室で彼の書を捜して居た時の様なども、思い出されたけれど、それは子爵に告げなかった。唯だ草村夫人の心中を思い遣って、云わば弁護をする様に、夫人の為に成る様に、と話したので有った。

 勿論子爵は夫人よりも先に、その辺の事を心配し、昨夜既に御自分から瓜首に云った程だから、直ぐに此の言葉に従って、草村夫人の部屋に行ったが、成るほど夫人の不機嫌は、並大抵では無かった。殆ど敵を待つ様な顔付で、子爵に向かった。

 けれど真逆(まさか)に、子爵を直接の敵として罵(ののし)る訳には行かないと見え、子爵が座に着くや否や、八方へ不平の余沫が散り、第一は瓜首真造を罵った。

 彼れが法律家で有りながら、充分に調査もせずに、太郎次郎を、両人とも死んだ者と思い、子爵の目を眩(くら)ませたのは、不都合であると説き、
 『彼の早まった為に、私共親子は、飛んだ損害を受けました。』
と云って、宛(あたか)も彼に、大財産でも盗まれたかの如くに主張し、次には民雄の悪口に及び、

 『到底私は、アノ様な者を娘の婿にする事は出来ませんのに、此のドサクサに紛れ、到頭娘を奪われる様な事に成りました。』
と云い、最後には、

 『もう娘の事などは何うでも好いのです。家に居たなら私の威光で、多少は制御する事も出来、婿らしい婿を定める運びにも成ったのでしょうけれど、此の家に来てから、ハイ、自分が此の家の相続人と云う事に定まってからは、急に我儘(まま)が強くなり、民雄を私よりも大事にして、私の手には負(お)いない事に成りました。

 是れはお金にも何にも、計算する事の出来ない損害ですよ。手に負いない者は、もう捨て置くとして、私しは自分の身の振り方に困ります。何の様な事が有っても、真逆(まさか)に貴方が、此の家から私を追い出しは、成されないでしょうが、たとえ追い出し成さった處(ところ)で、私は出て行く譯には行きません。』

と云って、殆ど貴婦人に有るまじき程の事を云うのは、如何にも多少は取りのぼせて居るのかも知れない。爾(そう)して又繰り返した。
 『飛んだ損害を受けましたよ。飛んだ損害を受けましたよ。』

 通例の人なら立腹もするだらうが、子爵は日頃の寛大な気質で、唯だ無言(だま)って聞いて居たけれど、損害、損害と幾度も繰り返す法律家の様な言葉が、余り耳に障(さわ)るので、少し笑いを帯びて、

 『何うも損害と仰有(おっしゃ)られる事には、誠に申し譯も有りませんがーーーー。』
と言い掛けると、

 『イイエ。損害です。此の家へ来てから、贅沢な事ばかりを見習い、自然に心も贅沢と為り、それにもう、此の家を我が家の様に思っても差し支えの無い事に成りましたから、今更ら我が家へ帰った所で、従前の様な居心地は致しません。
 私の身に取っては、我が家が犬小屋の様に成ってしまいました。多少値打ちの有る様に思った家が、何の値打ちも無い事に成りました。』

 子爵は返事する言葉も知らない。唯だ嘆息して首を垂れた。
  *      *      *      *      *      
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 息子の帰ったのは嬉しいけれど、未だ心配が減じたとは行かない。
 それに此の日、倫敦(ロンドン)から来た医者が、次郎の容態を見て首を傾けた。何しろ長い間の病気で、充分の手当もしなかったのだから、余ほど病根が深く成って、急に回復の手段が無い。のみならず、未だ危険な所を通り越しては居ないとの見立てである。

 愈々(いよいよ)我が家へ、死ぬ為に帰ったのでは有るまいか、爾(そう)して療養の方法は、薬も栄養も大切だけれど、それよりも心を慰めるのが第一だとの進言である。

 何うすれば此の進言を守り、充分な療養をさせる事が出来るだろう。唯だ当人の言うが儘(まま)にする外は無い。
 葉井田夫人は思った。当人の心を慰めるのは、梅子の看病に優るものは無いと。

 爾(そう)してその旨(むね)を子爵に話すと、子爵も勿論同じ意見である。梅子の方は、既に初めからその積りで看病して居るけれど、更に子爵から良く頼み、
 『若しも次郎に命が有るなら、その命は貴女の手で繋(つな)ぐのです。外の人には決して繋ぐ事は出来ません。』
とまでに云った。

 真に梅子は重い重い責任を負わされた様に感じた。
併し梅子が疲れた時に代わるのは、松子である。日に依り、又時に依って、余ほど気分の好い場合も有り、その様な時には葉井田夫人が後見の様に付き添い、梅子と次郎、松子と民雄、此の四人で庭から林から河の辺までも、散歩に出る事も有る。

 初めの中は、此の様子が余ほど草村夫人の癪に障(さわ)る様子で、毎(いつ)も夫人は自分の部屋の窓から、呪う様な目附きで此の五人一組の後ろ姿を睨んで居たが、何と感じたか、そのうちに自分も後見の一人に加わり、機嫌好く葉井田夫人と話しながら、四人の後ろに随(つ)いて行き、又時に依ると病室へ来て、看病などを手伝う事になった。


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