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人耶鬼耶(ひとかおにか) 小説館版
エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(第0章)人耶鬼耶 緒言(ちょげん)
(*緒言は原文のまま載せます。)
余今回訳述「人耶鬼耶(ひとかおにか)」と題せる此の一篇ハ、仏国にて、古来其の例(れい)なき大疑獄の顛末なり。大疑獄とハ、其の事件の大なるにハ非(あら)ずして、其の事柄の疑わしく、罪人の判じ難きを云ふなり。
余が此の篇を訳述するハ、世の探偵に従事せるものをして、其の職の難(かた)きを知らしめ、又世の裁判官たるものをして、其の職の難(かた)きを知らしめ、又世の裁判官たるものをして、判決の苟(いや)しくも軽るんずべからざるを悟らしめんが為なり。
之を切言すれバ、一(ひとつ)ハ、人権の貴(たっと)きを示し、一(ひとつ)ハ法律の、軽々しく用うべからざるを示さんと欲するなり。
一、斯(か)くの如き目的を以て訳述するが故に、或るひハ記事煩はしくして読者を、厭(いと)ハしむる処多かるべし。殊に我が国従来の小説を読み慣れたる方々ハ、屡々(しばしば)中途にして倦厭(けんえん)《飽きて嫌になる事》の念を生ずる事もあるべし。
然れども初め疑わしくして、後に至り、雲晴れ霧散ずるハ、疑獄小説の常なるに、矧(ま)してや此の篇の如きハ、小説に非(あら)ずして事実なるが故に、其の憾(うら)み《欠点があるのを残念に思う気持ち》は殊に多かるべし。
唯だ余が強いて願ふハ、初めより終わりに至るまで、満遍なく読み通ほされん事なり。所々の無味なる所を読み落としてハ、有味なる処までも、味わひ得ざるに至るべし。読者乞ふ。all or nothing(読む位ならバ残らず読め、残す程ならバ、丸っ切り読むな。)の一言を記憶せられよ。
一、翻訳の難(むずかし)きハ、世既に定説あり。中に就き小説の如きハ、人情の微に入るが故に、至難中の至難なり。況(まして)や余の如きハ、僅(わず)かに読む事を知りて、書く事を知らず、自ら意到って筆従はざることを嘆ずるものなるをや。
文の拙(せつ)なるが為に、事実の奇を損するの罪ハ、余が恥ずかしながら、又残念ながら甘んじて受くる処なり。
一、翻訳の文ハ、原文に拘制(こうせい)《とらわれる事》せらるる処多きを以て、動(やや)もすれバ流暢(りゅうちょう)を欠き、佶屈鰲牙(きっくつごうが)《文章が難しく読みにくいこと》読むに堪えざるに至るハ、読者の知る処なるべし。殊に其の地名人名の如きハ、我が国に在り触れたるものと異なる為め、記憶し難き思ひあり。
余が先に訳したる「大盗賊」の如きハ、強いて漢音の近きものを当箝(あてこ)めるの例に倣(なら)ひたれど、余ハ其の利益少なきを悟りたるを以て、此の篇に於いて、成るべく和訓の近きものを当箝(あてこ)むべし。例えハ「コモリン」を小森とするが如き是なり。
一、翻訳難(むずか)しと雖も、書を選ぶも亦易すからずぞと、或記者ハ言ひたるが、余は深く其の言の妙を感ずるなり。余、洋書を読み覚えてより、西洋小説の妙を感じ、毎月少なきも十数部、多きは三十部以上を読まざる無く、終歳(しゅうさい)書の為に貧し、今まで読み尽くす所三千部の上に至ると雖も、翻訳して妙ならんと思はるる者ハ、百に一を見ず。
読者之を恕(じょ)《許す》せよ。
涙香小子 識
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