hitokaonika11
裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」 小説館版
エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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裁判小説 人耶鬼耶 涙香小史訳述
第十一章 恋に破れた田風呂氏
判事田風呂氏は、有徳の名を聞いて、何故にこの様に驚いたのか。有徳は田風呂氏の敵(かた)きである。敵きも敵き、恋の敵きである。故に田風呂氏は驚いたのだ。
抑々(そもそ)も田風呂判事は、或る州の豪族の一人息子で、家には年々五万円(現在の7千4百50万円)以上の所得があるけれど、幼い頃から法律学に心を寄せ、終に二十五歳の時、判事に登用せられ、今年三十一歳に至るまで、足掛け七年の間、此の職を勉めていると云う。
それは扨(さ)て置き、田風呂氏は今から三年前、貴族荒川家の令夫人と親密になり、屡々(しばしば)その家に出入りする中、風(ふ)と呉竹姫を墻間(かいま)見たが、その頃姫は十六歳で、まだ婀娜(あどけ)ない少女で、非常に容貌(かおかたち)が麗しく、その態度(ふるまい)が爽やかだったので、田風呂氏は深く思い染め、姫の心を得なければ、生きて此の世に望みなしと迄に、恋い慕うこととはなった。
此の時から殆んど、判事の職務は打ち忘れた様になり、日として荒川家に行かない日は無く、行くと呉竹姫の為に懸命に勉めた。その年の暮頃になった時、我心を押える事が出来なくなり、荒川家令夫人に向かい、姫を我妻に請い受け度い事を申し出た。
此の頃、フランスの貴族は、世襲財産というものが無かったので、名前は尊(とうと)いけれど、実は貧しい者が多く、どの家も、娘には物持ちの婿を得て、再び昔の栄華を極めたいと、秘かに捜し求める事が多かったので、令夫人は田風呂氏の家が富めるのを喜び、
「姫さえ承知すれば、我らに於いて異存はなし。兎にも角にも、姫の心を動かす様に勉めなさい。」
と答えた。
田風呂氏は早や事が、半ば成った様に喜び、此の後は荒川家に、寝泊まりをしているかのように振舞った。知らない人は、家内かと思う程、繁々と通って行き、或る時は姫の手を携えて、庭園に花の開くを賞し、又或る時は姫とテーブルを隔てて、花牌室(かるたしつ)で、夜の更けるのを忘れるなど、浮世の事を打ち捨てて、恋に遊び、恋に酔い、恋に夢みて居たが、其の中に姫の心が、少し我を慕う様に思われたので、折りを見て其の手を取り、
「姫よ、我が心は御身に通じないか、私は御身の為に生き永(ながら)えているのだ。姫よ私に此手を授けて下さい。姫よ、貴女の返事一つで、私は世界第一の幸いを得るのです。姫よ、此の幸いを私に得させて下さい。貴女の花の唇をもって、私を香しき恵みの露に潤(うるお)わせて下さい。」
と他事もなく打ち口説いたところ、姫は握られた手を振払い、
姫「我が友よ。情け深い田風呂氏よ。私は今日迄、貴方を一の友として頼りにしていたのに、貴方は私を捨てるのですか。私は貴方を第一の友と思っているのです。所天(おっと)にしようとは少しも思って居りません。
貴方が若し、私の所天(おっと)になろうと思うならば、私は貴方を捨てなければなりません。私には心を許す所天(おっと)が有ります。私はその人に添われなければ、尼寺に入って、身を誦経(ずきょう)の声に、埋めようとまで思っています。此の事は私の母も知らないですが、私とその人は、既に神明に誓って、夫婦の約束をしています。
私は、他人には、その人の名を告げて居ませんが、貴方には今迄の親切に愛(め)で、その名を知らせます。田風呂氏よ、私が所天(おっと)と定めたのは、皇族小森有徳です。田風呂氏よ私は有徳のものなのです。私の自由にはならない身なのです。貴方は外に善き妻を娶り、私の為には、何時までも第一の友となって交わって下さい。」
と言葉に澱みもなく断られ、アア世にこれ程迄も美しく、これほどまでも操堅い女があるかと、恋の想いは弥(いや)益せど、今更返す言葉もなく、
「姫よ、私しが知らないで居た罪を許して下さい。私は生涯貴女の為には、命をも厭(いと)わない友で居ます。貴女が小森伯と末永く行く事を願います。」
と男らしく言い放つと、姫もその心に感じ、
「真の友よ。」
と言って、花の唇を田風呂氏の額に接した。田風呂氏は何気ない体で、暇(いとま)を告げ、家に帰ったが、此の時から再び、今迄の活発な田風呂氏ではなくなった。ミカド芝居の浦島は玉手箱を開けた為め、俄(にわ)かに老人となったと聞くが、田風呂氏は呉竹姫に拒まれた為め、忽(たちま)ち二、三十、年を取ったかと思われる程、容貌が変わってしまった。
容貌のみではなく、その心まで狂って、前後を弁(わき)まえない事となり、日々ピストルを隠し持って、小森有徳の名前を細語(ささやき)ながら、当て度もなく、町々を漂う人となったのである。恋の発狂ほど恐ろしいものはない。
この様にして、二週間も過ぎた頃、何処で求めたのか、森有徳の写真を手に入れ、且つ彼が常に行く倶楽部の名さえ聞き出したのか、狂人ながらも喜び勇み、直ぐにその倶楽部に入って行った。此の時小森有徳ば、倶楽部の内で、唯一人暖炉に向かって、余念もなく新聞紙を読んで居たが、田風呂氏は、写真を出してその姿を見較べて、独り頷(うなづ)いて、用意のピストルを取り出し、その弾を検(たしか)め見て、有徳の後ろに進み寄り、充分に狙いを定めて、撃(う)とうとした。
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