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裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」  小説館版

エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

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       裁判小説 人耶鬼耶     涙香小史訳述

       第十二章 田風呂判事の悩み

 発狂は闇夜の稲妻のようだ。心眩(くら)んで、西も東も弁(わきま)えない中に、時々正気に返って、善悪を見分ける事である。しかしながら此の正気は、即ち稲妻なので、永くは続かず、ピカっと光って、忽(たちま)ち又旧時(もと)の闇となる。

 田風呂氏はピストルの引鉄(ひきがね)に手を掛け、小森有徳を目掛けて、今や引放そうとする折りしも、忽(たちま)ち稲妻のように、正気の心が現れて、我が行いの悪るい事を悟った為め、心挫(くじ)け、戸口の方に二足三足退いたが、是の時正気の稲妻は又消えて、再び心の闇となった。

 闇に鉄砲、方角も定めずに、倶楽部を外へ奔(はし)り出て、当度もなく市街を経廻(へめぐ)る中、力尽き身体疲れ、終に或る町の四辻で、物に躓(つまづ)き倒れた。是れは全く発狂のなす業である。倒れた機会(はずみ)に、どこかを酷(ひど)く打った者と見え、鼻血滾々(こんこん)と流れ出て、四辺(あたり)の敷石を紅色に染めたが、田風呂氏は此の儘(まま)気絶して、何も分からなかった。

 このような所へ、巡査も来合わせ、その懐中などを調べて見ると、田風呂判事である事が分かったので、直ちに身寄りの者へ引き渡たしたが、憐れむべし、田風呂氏は是から直ちに熱病を発し、何事も理解せず、唯時々熱に浮かされて、呉竹姫と小森有徳の名を口走るばかりだった。

 国許にある父何某は、此の事を聞いて、大いに心を痛め、早速巴里(パリ)に出て来て、病院に入れたけれど、凡そ六十日の間は、狂熱に浮かされて、此の世の人とも思われない。漸(ようや)くにしてその病が癒(い)えたのは、凡そ三月の後だった。

 是から田風呂氏は、大いに自分の心が迷って居た事を覚り、再び判事の職に就いたが、今は沈着一方の人となり、笑いもせず、怒りもせず、時々、心に呉竹姫と有徳の事を思い出す事があったが、自ら制して、打ち忘れようとのみ努めたので、去るものは日々に疎(うと)く、取り分けその後は、この様な事を思い出す暇も無いほどに、職務を勉強したので、過ぎ去った事は、全くの夢となり、今は青年判事の手本だと、賞(ほめ)られる身の上となった。

 だから田風呂氏は、散倉の口から有徳の名前を聞き、忽(たちま)ち過ぎた昔の悲しい夢を、歴々(ありあり)と思い出し、その顔色が変わるまでに驚いたのだ。驚いたため、少しの間、自分の心を推し鎮(しず)めようとして、散倉を応接所へ追い遣ったのだ。

 その後で田風呂氏は、何もせず、
 「アア時が来たか、敵と思って居た有徳が、この様な大罪を犯した上、我が受け持ちになったとは、職務によって仇を返す、願っても無い好機会であると、我にもなくニッコとほほ笑んだ。是は誰しも逃れられない、人情の迷いなのかも知れない。しかしながら、流石は判事をも勤める身なので、早くも思い返し、誤っている誤っている。

 心にこの様な憎しみを抱いて、どうして罪人を取り扱って好いものか。我ながら、この様な賤しい根性を出すとは、浅ましい限りだ。此の事件は、他人に譲ろう。我が身に勉まる裁判では無い。取り分け、自分が先に有徳を殺そうとして、炮口(つつくち)を、彼の背に差し向けた身として、更に此の事件に携わる事は、我が心に対しても、恥ずかしいと、漸(ようや)く思い定めようとしても、煩悩の犬はまだ去らない。

 又も思い直すために、私は一旦呉竹姫に向かい、姫の為には命を捨てます。生涯姫が第一の友で居ると誓い乍ら、今有徳を救わなければ、その誓いに背いてしまう。有徳は仮令(たと)い罪があろうとも、我が力を以て救い出し、首尾好く呉竹姫に返し与えることは、男の意地を通そうとする為、法律を曲げ、人を曲げ、罪ある者を救い出すことは、判事の職務と云うべきだろうか。

 愚かなり、愚かなりと、心百端に乱れ狂い、良久(しばし)が程は、迷いに迷って居たが、頓(やが)て奮然として机を叩き、晴れたる眼を見開いて、アアこの様に迷うのは、臆病である。我、判事の職に在るからは、眼中に敵もなく友もなく、恩もなし怨みもなし。公平の心を以て、公平の裁判を下すのに、何の顧みる所あろうか。

 有徳に罪があれば、相当の罰を与えよう。罪が無ければ、放ち帰そう。我が一身は、田風呂にして、田風呂に非(あら)ず。法律を取り扱う機械である。此の場合いに臨み、まだ心を起こし、或いは憚(はばか)り、或いは怒るは、我が職務を軽んずる者である。

 我は唯法律を知るのみ。世間があるのを知らず。我は唯罪人を知るのみ。何で有徳があるのを知ろうかと、ここに初めて思案を決すると、精神忽ち爽やかにして、恰(あたか)も草叢(くさむら)から、大道に出た心地がした。

 依って直ちに衣紋を調(ととの)え、応接の間に入って行くと、散倉は自分が警察官に成り済ませた様に、
 「有徳の捕縛状はもう出来ましたか。」

 田「イヤそう軽々しくは出来ません。今の所では、唯だ小森有徳と澤田實が、取り替えられたものらしいと云う事だけで、外は分かりません。成る程、有徳は随分お伝を殺し相な場合に迫られては居れど、果たして彼が殺したと云う証拠は未だありません。」
 散倉は驚いて、

 「証拠が無い。之が証拠で無くて何で有ります。昨日既に罪人は、お伝より目上の者、更に年の若い者と云う事も分かり、立派な服を着て流行(はやり)の靴を穿(は)き、流行の蝙蝠(こうもり)傘を持って居たと云う事も、分かったではありませんか。有徳の身の上と寸分違った所もなく、且つ又有徳の外に、誰がお伝を殺して利益を得る人が有りますか。

 犯罪に因り、利益を得るものを疑がえと云う、探偵の原則を貴方は御存知ではありませんか。今、お伝さえ殺して仕舞えば、外に証拠がないことなので、有徳は何時迄も貴族の儘(まま)で居られます。此の散倉でも、若し有徳と同じ場合に迫れば、必ずお伝を殺します。

 是で証拠は無いと仰(おっしゃ)れば、猶更ら捕縛しなければなりません。此の儘(まま)彼を、一日でも打ち捨て置けば、彼はその外の証拠物を隠します。取り分け、彼の犯罪は四日の夜ですが、彼は必ず四日の夜には、誰伯(だれはく)の家で花を引いたとか、何爵の宴会に招かれたと、旨(うま)く申し立てるに極まって居ます。

 今捕縛しない時は、彼れは必ずそれ等の人々を、証拠人に拵(こしら)えます。犯罪の証拠を隠すだけでなく、無罪の証拠を沢山に作り、又皇族貴族の中に証人を幾人(いくたり)も拵(こしら)えます。昔から是ほどの証拠があって、まだ罪人を捕縛しない事件は有りません。之を捨てて置くのは、判事の怠慢です。貴方の手落ちです。」

と熱心に説いたので、田風呂氏も充分考えた上、その言葉の道理なるを察し、遂に小森有徳を捕縛せよとの、逮捕状を認め、更にその逮捕の一行へは、散倉を従い行かせる事と定めた。散倉は勇み立ち、

 「明朝早やく、彼が寝間(ねこみ)に踏込みます。更に彼の居間の隅々を、隈(くま)なく探せば、犯罪に用いた道具や手袋なども、隠してあります。」
と言って、我を忘れて打ち喜び、その儘(まま)別れを告げて立帰って行った。

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