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裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」 小説館版
エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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裁判小説 人耶鬼耶 涙香小史訳述
第十三章 父に問う有徳
お伝が殺されたのは、三月四日の夜で、判事田風呂氏がその場に臨み、探偵烟六(けぶろく)と散倉(ちらくら)の両人に、捜査を始めさせたのは、その翌々日、即ち三月六日である。是れは読者が、まだ記憶している所に違いない。
小森有徳は三月に、初めて澤田實に逢ってから、まるで病人の様に、食事さえも咽喉を通らず、従僕下女等に至る迄、その様子を怪しむ程だったが、翌四日に至る迄、その様子を怪しむ程だったが、翌四日になって、日の暮頃に家を出て、何所へか行き去った。
その行方は、誰一人知る者はなく、又何時頃家に帰ったのか、之を知る人は無かった。翌五日は終日家にあり、その顔色は、昨日より少し安心した様に見えたが、胸中に充分な心配を隠す様に、堅く一室に籠(こも)って、従者さえもその部屋に入れず、唯事では無いと思われた。
その翌日(即ち現場検査の日)は、父禮堂が日耳曼(ぜるまん)《ドイツ》から帰る由の知らせ来たので、午前十時頃、従僕(しもべ)を引き連れ、野留戸の停車場まで出迎え、午後一時、父と一つの馬車に乗り、帰って来たが、その顔附きの唯ならない事は、誰が目にも怪しまれる程だった。
抑(そもそ)も有徳の父、侯爵禮堂は極めて腹立ち易く、且つその心は屡々(しばしば)変わって、他人と仲を違える事は、度々ある程だったので、家内の者に向かっても、二言目には叱り附け、極めて機嫌取り悪(に)くかったけれど、暫(しばら)くすれば忽(たちま)ち直り、別の人かと思われる迄に、優しくなる気質でる。
此の日は、有徳の何となく打ち鬱(ふさ)ぐ様子を見て、腹立たしく思ったのか、帰るや否や、別室(べつま)に連れ行って、
「是、有徳、父が帰ったのに、笑顔もしないのは敬いが足りないと云う者、先年来、其方(そなた)が屡々(しばしば)呉竹姫と、縁組の事を願うので、先日承知して遣ったが、是も取消さなければならない。其方が、真実父を敬う心があるならば、俺の言う事を黙って聞け。
此頃は、既に拿烈翁(ナポレオン)家の嫡流と知られている、巴里(パリ)公さえ、退去を命ぜられ、皇族の勢いが、日に日に衰える世の中なので、此身も何時、共和国政府から退去を言い渡されるか分からない。それに附いては、あの貧しい荒川家の娘などを、娶っては了(いか)ん。
何時退去せられても、先に立つものは金だから、何でも妻は金満家から貰わなければならない。就(つ)いては、既に旅行中、気を附けて、一人相当な金持ちの息女を見出し、内約束を済せて来た。明日とは云わず、今日直ぐに、呉竹姫へは、其方(そなた)から破談状を遣らなければならない。」
有徳は黙って聞いて居たが、余りにその言葉の圧附け(おしつけ)がましいのを恨んだか、青白い顔を上げ、
「それでは、金の為には愛せぬ女を、娶らなければならないと、仰(おっし)ゃりますか。」
禮堂はグッと怒り、
「エエ、又しても愛情愛情と、愛情がなくても、一二年添う中には、自ずと愛情が出来て来るワエ。」
有徳も堪(こら)え兼ねたか、
「尊父(おとっ)さん、貴方は御自分で、愛情のない女を、娶った覚えがありましょう。まだそれにお懲(こ)り遊ばしませんか。」
禮「何を云う。」
有「貴方は夫人を娶った時に、その婦人を愛せない為、非常な罪を犯した事を忘れましたか。」
と、憚(はばか)る色もなく、攻め入る言葉は、痛くその急所に膺(こた)えたか、禮堂は色を変え、
「先程から其方の様子を見て、変だと思って居たが、愈々(いよいよ)発狂の気味がある。何も言わずに、居間へ帰って寝るが善い。」
有「発狂ではありません。御留守の中に、貴方から澤田夫人へ送った手紙を、悉(ことごと)く読みました。」
是に至って、禮堂も最早辞(いな)む様はなく一段と声を荒げて、
「その事は決して一言も言うな。此の俺が堅く禁ずるから、以後澤田の澤の字も、口から外へ出しては成らぬぞ。」
親の威光を傘に来て、厳(おごそ)かに言い渡したが、現在、己れに覚えがある身が、何時まで折れずに居らるべきか。しばし黙然として考えて居たが、隠せない事と断念(あきら)めたか、俄(にわ)かに言葉を柔らげ、
「アア虫が知らすとは、争われない者じゃ。先程其方(そなた)の顔色の青いの見て、若し此の事を知ったのでは無いかと思ったが、果たして思った通りじゃ。して誰から聞いた。」
と言った時は、親ながらも子に向い、充分に恥じらう景色が現れた。
有「実は本月の三日の日に、見知らぬ若い男が参り、大切な用事があるので、是非とも面会したいと云うに由り、一室へ通して逢った所、その男が手紙を出し、それで初めて我が身が、不正の子と云う事も、又真正の嫡男が、外にあると云う事も、聞き知りました。」
禮「無礼な奴じゃ、その時、勿論その男を叱り附けたで有ろうな。」
有「イエ、私しも初めは腹立たしく思いましたが、証拠には勝たれません。」
禮「それでその方は、手紙を受け取って何う致した。」
有「悉(ことごと)く読みました。」
禮「馬鹿な奴じゃ、何故火の中へ燻(く)べて仕舞わない。」
有「その様な心は出ませんでした。好しんば気が附いても、私には出来ません。」
禮「それから何した。」
有「その手紙を読んで仕舞い、十日の間、返事を待って呉れと言って、帰しました。就きまして伺いますが、私しは全く、澤田夫人の腹に出来た子で有りますか、且つ又唯今、澤田夫人の子となって居るのが、全く此の家の嫡男でありますか。」
禮「そうとも、全く取り替えたのじゃもの。併しその方が可愛いから、取り替えたのじゃ。此の俺を恨んでは成らないぞ。有難いと思え。」
有徳は深く嘆息(ためいき)を発し、
「私はあの手紙に、取り替えると云う迄の手続きが有って、肝腎の取り替えた事を書いてないから、若しや取り替えずに止(よ)しはしなかったかと、今まで疑浮乎(あやふや)に思って居ました。」
禮「何、取り替えたと云う事を書いてないと、その様な筈は無い。取り替えた事はヤうたたと云う事を書いてないと、その様な筈はない。取り替えた事は申すに及ばず、その後も屡々(しばしば)取り替えが旨く済んだ喜びの手紙を出し、又その返事も受け取ったから、フム其方(そなた)は手紙を、皆まで読まなかったので有ろう。」
有「イヤ残らず読みましたが、その一番終わりのに、国境の宿へ、お伝と私しが到着し、一つの部屋へ寝たと云う事までしか書いてありませんでした。」
禮堂は發(はた)と手を拍(う)ち
「それ丈では何の証拠にもならない。仮令(たとえ)その事を企(たくら)んだにしろ、その場に臨んで後悔して、止(や)めて仕舞ったと云えば、立派に云い抜けられる。フム察する所、大事の所を書いた手紙は、澤田夫人が破って仕舞った者と見える。それを蓄えて置く様な気の利かない女では無い。好々、それでは少しも心配に及ばない。」
と言って、漸(ようや)く笑顔になったのは、鬼の様に無慈悲なことだ。
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