hitokaonika14
裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」 小説館版
エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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裁判小説 人耶鬼耶 涙香小史訳述
第十四章 正直な有徳
禮堂は更に言葉を継ぎ、
「シテその手紙を持って来た若者と云うのは何者じゃ。」
有「貴方の嫡男(ちゃくなん)、澤田實殿が自身で参りました。此様な密事を、他人に頼む事は出来ないので、無理やり参上したと申しました。」
禮堂は少し考えていたが、一際声を低くして、
「コレ有徳、こうなったからは、共々に力を合わせ、此の困難を切り抜ける外は、仕方がない。好いか、納得が行ったか。」
有「ハイ一日も猶予は出来ません。私しは充分決心致して居ます。」
礼「何う決心致した。」
有「それは申すまでもありません。貴方の嫡男に頭を下げて、此の名前を譲り、私しは直ぐに、実の母の子となります。贋者(にせもの)が、嫡男を追い出すと云うのは、道ではありません。」
と道徳堅い此の返事に、禮堂は聒(か)っと目を張り、満面紫色になるまで怒りを起こし、
「道があるのないのと、その様な気楽な事を云う場合ではない。其方(そなた)は何時までも、小森有徳でなくてはならない。一旦取替えたからは、實は此の家の嫡男ではない。決して此の家へ入れる事は相成らん。」
有「それでも貴方・・・」
礼「先(ま)ア、口を出さずに黙って聞け。道に負く事は知って居る。二十年此の方、一日として我が過ちを後悔しない事はない。併し一旦犯した過ちは、悔んでも取り返しが附かない。
此の上は、唯だ飽くまでも、此の事を押し隠し、此の家の恥じを、世間へ洩らさない為め、我と我が心を鬼にし、顔にも出さず、堪(こら)えて居る父の心を、察して呉れ。
此の父が短気になり、人に癇癪皇族と綽名(あだな)される事になったのも、全く昔の罪に心を迫られ、片時も安心する暇(いとま)がないからの事。それを今更改めて、實を此の家に入れる時は、今迄包み果(おほ)せた、二十余年の辛抱も水の泡じゃ。
俺としても嫡男實の事は、時々心にも掛かり、夢にも見る。我ながら、アア可愛相な事をしたと、思う事は度々なれど、それを堪(こら)えて、こうして居るのは、先祖代々、世に崇(あが)められた小森の家を、人の口端に掛けない為めだ。
そうでなくても、皇族貴族の勢いは、日に日に衰え、世の物笑いとなる者が多い今日、若し此の事を世間に知らせては、此の仏国(フランス)は申すに及ばず、欧羅巴(ヨーロッパ)全州の新聞種になる。
こうなった上は、飽くまでも隠し果(おほ)せる外はない。親の過(あやま)ちは子の過ち、仮令(たと)い其方が何と思っても、是ばかりは、父の言葉に従わなければならない。従わないと云っても従わせる。」
有「是は貴方のお言葉とも思われませン。此の事を言い出したのは、嫡男の實殿です。仮令(たと)え私が黙っていても、實殿は決して黙りはしないでしょう。」
礼「彼、何の証拠も無いのに・・・・」
有「イヤ貴方の手紙が何よりの証拠であります。」
礼「手紙には肝腎の所が、足りないと言ったではないか。」
有「イヤ私しが読んでさえ、取替えた者と言う外は、思われません。況(ま)して皇族を憎がる、一般の世の人が見れば、充分の証拠と認めましょう。それのみならず、實殿には立派な証人がありまする。」
礼「誰が証人になる。」
有「現在此の私しが証人です。私しよりも、貴方こそ充分の証人です。若し裁判所へ呼び出され、誓いを立てて申し立てよと言われれば、貴方は何と仰有(おっしゃ)ります。
仮初(かりそ)めにも、皇族の身として、裁判官に対し、偽りが言われますか。縦(よし)や心を鬼にして、裁判官を欺くとも、それで心が済みますか。顔色に現れは致しませんか。心が咎めは致しませんか。声が震えは致しませんか。」
と潔白(いさぎよ)い有徳の言葉に、禮堂暫(しば)し首を垂れ、心を痛める様子であったが、
「何と云っても、此の家の名誉には替えられない。」
有「貴方は仮令(たと)え、偽りを以て裁判官を欺くとも、實殿は必ず、私しの母、澤田夫人を呼び出しましょう。」
礼「イヤ澤田夫人は大丈夫、彼(あ)れも、此の事が露見しては、我が身の恥じともなり、且つは我が子である、其方の身の上にも拘(かかわ)るから、決して白状はしない。若し白状しそうであれば、俺が直々面会して、篤(とく)と言い聞かせて置く。」
有「金で口を塞(ふさ)ぐのは、決して当てになりません。千円(現在の約380万円)で塞いだ口は二千円で開きます。」
礼「イヤ望み次第、幾等でも取らせるから。」
有「そうは参りません。お伝は實殿の乳母でしょう。實殿の出世を祈る乳母でしょう。實殿の為には、他人の金を受けないかも知れません。それに先日、實殿は更に事実を確かめる為、私しと共に直ぐ様、お伝の家へ聞きに行こう申しました。
そうすればもうお伝は、既に實殿に、証人となる約束をしてありましょう。初めて此の事を實に知らせたのも、必ずお伝と思われます。實殿は、お伝に聞き出して、それから証拠の調査に取り掛かり、あの手紙を見出したに違い有りません。」
禮堂も之には思案に余ったか、独り、
「ああ先年死んだ、従僕次郎が生きて居て、その代わりお伝が死にさえすれば、何の心配もないものを。」
と口の中で呟(つぶや)くのみ。有徳又も言葉を進め、
「サア貴方の為に、第一の妨げとなるのは、彼(あ)のお伝でありましょう。」
禮「ウー」
と暫(しばら)く考えていたが、何か心に浮かんで来る事でもあったのか、溌(はた)と横手を打ち、
「ナアニお伝めは、少しも恐い事はない。」
と云うその眼の中に、得も言われない物凄い笑いを光らせた。
この時若し、お伝が既に一昨夜、何者にか殺された事を、告げ知らせたならば、禮堂はさぞかし、喜ぶ事になるに違いない。
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