hitokaonika15
裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」 小説館版
エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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裁判小説 人耶鬼耶 涙香小史訳述
第十五章 癇癪(かんしゃく)を起こす禮堂
有徳は父に向って更に言葉を継ぎ、
「貴方は只管(ひたす)ら、此事が世間へ洩れるのを、御心配なされますが、誰にも知らさず納めるには、静かに實殿と私しと、入代わる外はありません。
若し實殿が裁判所へ持ち出す事になれば、私しは勿論貴方まで、一度は白洲へ呼ばれます。それで何(どう)して、世間の口が塞(ふさ)がれましょう。縦(よ)しや証拠の不充分な為め、裁判に勝つとしても、貴方が一夫一婦の法律に背いたと云う事は、打ち消す事が出来ません。
貴方が正しい子と不正の子を、取り替えようと企(たくら)んだ事は、隠す事が出来ません。況(ま)して實殿の勝ちとならば、世間で何と申しましょう。隠した後で明らかになるより、無事に實殿を入れる方が、どれだけ内密に済むか分かりません。」
と道理を分けて説いたが、禮堂は既に實の証人を、悉(ことごと)く奪い尽そうと決したので、一寸も動かない。
禮堂「其方(そなた)は、父の云う事を何と思う。父と争って済むと思うか。」
有「決して争いは致しません。子たる者の義務を尽くすのであります。今の中ならば、事を穏便に済ませる工夫がありますから、それを申し上げるのであります。
何事もなく實殿を此家に入れるならば、誰も苦情は申しません。その上、私は民間に身を隠し、實殿は四、五年の間、ドイツや、イタリアなどを旅行し、帰った上で此の家へ入れれば、誰も怪しいとは思いません。」
禮堂は有徳の言葉を聞き流し、独り思案をして居たが、漸(ようや)く頭を上げ、
「ナニ、好い工夫がある。實に銭を遣って、あの手紙を買返せばそれで済む。今の人は銭さえあれば何うでもなる。銭を取らせて追い返すサ、手紙さえ此方(こっち)へ取れば、彼が何を言ったって、世間の人は真実とは思わない。」
有「それは余りに、意地が悪くはありませんか、實殿は現在、貴方の血を受けた嫡男ではありませんか。」
礼「こうなれば、嫡男も何もない。父に向かって、手紙を持って強取(ゆす)りに来る様な奴は、皇族の家には入れられない。」
有「ソレは貴方の間違いです。私しは實殿に逢って、知って居ますが、その容貌(かおかたち)と云い、心と云い、皇族と云って少しも、恥ずかしくはありません。艱難《苦労》に窶(やつ)れてこそ居ますが、実に貴方の種を受けた丈あって、断固たる気象が見えて居ます。その決心の鋭き声は、今でも私しの耳に響いて居ます。
彼(あ)の決心では、迚(とて)も金では聞きません。皇族たる我が身の権利を、取り戻すか、事破れて乞食となるか、二つに一つのその外へは、決して動く男ではありません。金を横取(ゆす)りに来たと思し召しては、大変に違いましょう。」
禮「それでは其方は、何うすれば好いか。」
有「今迄申す通りであります。實殿と私しと、大人しく入れ交わります。私は裁判所に引き出だされ、此の家を汚し、此の身を汚す事は決して出来ません。何と仰るとも、私しの心は動きません。」
ここに至って、禮堂は嘲(あざけ)る様な笑いを含み、
「フフ感心じゃ、併し其方(そなた)が此の家を出れば、何を喰って命を繋ぐ。今まで皇族の家に育ち、腕に覚えのない者が、急に平民の社会に落ちれば、世を渡る事から考えて、掛らなければならないぞ。」
有「それは貴方のお情けに与(あずか)ります。今迄私しの小使いとして、取り退けてある金子の中を、幾等か戴いて、母子の命を繋ぎます。又その中には、何なりと稽古して、一芸を得ます。」
禮「イヤ若し、わしの方がその金を遣らない時は、」
有「その様な事は決して無いと存知ます。貴方の御身分として、仮令(たと)え私しが、此の家を出たからと言って、私し母子を飢えさせるとは思われません。」
禮「此の家を出れば、呉竹姫をも捨てなければならないが、それも承知か。」
有「イヤ既に此の事を、姫に打ち明けましたところ、姫も私しの思う通り、實と入り交わるのが義務だから、その様に致せと申しました。仮令(たと)え此の家を出たからと言って、姫の心は代わりません。若し姫の母御が、婚姻を許さないと云うなら、母御の死ぬまで待つ筈です。」
と更に動かない有徳の言葉に、禮堂の癇癪(かんしゃく)ぐっと込み上げ、俄(にわ)かに声を荒げて、
禮「其方は愈々(いよいよ)俺の子では無い。姦夫の種を受けたものじゃ。其方の父は何者だか、澤田夫人より外に知る者は。汚らわしい。」
有徳も此の無礼には堪(こら)えられず、
「貴方は好く考えて、物を仰っしゃいませ。澤田夫人は私の母であります。私しの目の前で、母を罵(ののし)る者は、誰でも容赦が出来ません。」
と遣り込められて、どうして我慢が出来よう。先程から我慢していた憤怒の念が一時に発し、骨の様な鉄拳で、砕けるばかりに机を叩き、
禮「愈々(いよいよ)以て無礼な奴じゃ。出て行け。俺の子じゃない。」
有徳は静かに立ち、恭(うやうや)しく一礼して、戸口を指して出て行こうとした。アア有徳は、身の義理を貫き、嫡男實を救おうとして、今や不義の富貴を捨て、皇族の家を捨てて、当てどもない民間に、身を落とそうとする。
その義の堅くして、心の正直なるを、誰か感動しない者があるだろうか。左しもに頑固な禮堂も、その潔白の行いに、痛く感ずる所あったに違いない。忽(たちま)ち声を柔(やわら)げて、有徳を呼び返し、
禮「有徳許して呉れ、其方を見損なっていた。其方の心の潔白には感じ入る。天晴皇族の嗣子(あととり)と云って恥ずかしくない。實の事は其方の気にも落ち、此方の胸にも落ちる様に、何とか処分を付けるから、今迄の父の邪険《意地悪》は許して呉れ、有徳、サアその手を出せ。」
有「ハイ」
と答えて、有徳が差し出す手を、父は握って、暫し放す事が出来なかったのは、是れこそ、その行いに、感動ることが深かった為に違いない。禮堂は漸(ようや)く心を定め、
禮「今夜の中に思案を定め、明朝改めて其方に知らせるので、居間へ帰って休むが好い。」
と云うのに、有徳は聞き入れて静々と廊下に出た。
此の時既に夕飯の時刻なれど、有徳は食堂へは入って行かず、その儘(まま)我が部屋に帰り、入り口の戸を堅く鎖(とざ)して、身はその中に閉じ籠った。是から夜の十二時を過ぎるまで、心を悩ませて、眠りもせずに居たが、思案が溢れて嘆息(ためいき)となり、
「アア二年の間、父に説き、漸く呉竹姫と縁組の許しを得たのに、忽(たちま)ち此の大難起こり、皇族の富貴を捨てなければならない。是程不幸な事が有ろうか。」
と独言しつつ、傍(かたへ)なる毎夕新聞を開いて見ると、雑報の第一に、お伝の殺された事が記してあった。
有徳は顔色全く死んだ様になり、読もうとするも、読む事が出来なかった。心の中は恰(あたか)も、渦巻く様に騒いで居た。
暁方(明け方)に到り、終に心疲れてウトウト眠りに就こうとしたが、此の時、遽(あわただ)しく入って来る従僕(しもべ)何某、声もしどろ《みだれて何を言って居るか分からない》に、
下「若旦那、早く早くお逃げなされませ。巡査が貴方を捕縛に参りました。」
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