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裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」  小説館版

エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

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       裁判小説 人耶鬼耶     涙香小史訳述

        第十八章 小森侯爵の陳述

  澤田實の後ろ影が、漸(ようや)く見えなくなった所へ、引き違いに入って来る探偵散倉、有徳を捕らえた我が手柄に勇み立ち、未だ一礼も述べないで、田風呂判事に向かい、
 散「捕縛(ほばく)して充分証拠を押さえました。是ほど見事に証拠の揃った事はありません。」

 田「先(ま)ア静かに・・・・」
 散「イヤ静かに出来ません。拙者の目で睨んだ通り、尖(さき)の折れた短刀も、緑色の手袋も残らず出ました。」
 田「フムその様な証拠物が出たとは、夫(そり)や意外だ、是から先づ審問の手続きを定めなくては。」

 散「イヤ手続きも何も入りません。唯有徳を此処へ呼び出し、彼の手袋とお伝の爪の間から出た皮の切れとを二つ見せさえすれば、幾等強情な男でも白状します。恐れ入ります。」
 田「それで恐れ入らない時は。」

 散「恐れ入らない時は、此の短刀を出し、その刃の折れた所と、お伝の肩掛けで拭った血の痕と、符節(しっくり)合わせて見せれば、一言も言う事が出来ません。」
 田「そう易々は行かないだろう。彼も相当な切れ者だから、充分に偽証を拵(こしら)えてあるに違いない。」

 散「それは勿論の事です。夜前も申し上げた通り、種々の皇族や貴族を偽証に立て、あの晩は何処で花札を引いたとか何とか、少しは申し立てましょう。併し幾等申し立てても、是だけの証拠を見せれば、自分で恐ろしくなるから、もう駄目だと断念(あきら)めて謝(あやま)ります。恐れ入ります。

 若しそれでもまだ、恐れ入らないならば、決して彼ではありません。罪人(とがにん)が外にあると思わなければなりません。今も彼の様子見ると、驚く中(うち)にも、何処となく落ち着いた風があるから、既に充分な偽証を拵(こしら)え、之れさえあれば、何うしても言い抜ける事が出来ると、思って居るに違いありません。

 中々喰える奴じゃありません。併しもう此の散倉の目で睨んだからは、何と言い訳をしても通しません。ア、爾々(そうそう)、未だ大変な証拠があります。彼に逮捕状を渡した時、彼は我れを忘れ、口の中でアアもう駄目だと申しました。此の言葉だけでも、充分な証拠であります。」

 「フムそれは大変な言葉を吐いたナ。少し考えの深い罪人ならば、その様な言葉は遠吐(おくび)にも出さない筈だが。」

 散「それを吐かせたのが、私しの計略(はかりごと)です。
初め入って行った時に、従僕(しもべ)の様な男が居たから、先ず此奴(きゃつ)を威(おど)して遣れと思って、大喝一声に、

 「小森有徳を捕縛に来た、案内しろ。」
と申しました。スルト案に違わず、彼奴(きゃつ)肝を潰して、有徳の部屋へ注進に参りました。

 その時私しは茲(ここ)ぞ大事と思い、一寸も後(おく)れず、直ぐその後へ着いて行きました。有徳は未だ充分目が覚めない所へ、寝耳に水の注進を聞いたため、一時に心が眩(くら)んで、我知らず上の言葉を発しました。

 何の様な罪人でも、目が覚めない所を酷(ひど)く驚かせば、必ず驚きの余りに、証拠となる言葉を吐きます、先日質屋の番頭を捕縛した時も、矢張り此の伝です。その枕許で泥棒めと喝(しか)り附けた所が、三人寝て居た中の一人が飛(と)び起きて、逃げようとしました。其奴(そやつ)を取調べた所、果たして泥棒で有ました。
 此の謀略(はかりごと)ばかりは、何度用いても功があります。」

 田「それは旨(うま)く遣った。イヤ拙者も唯今、澤田實を呼び出して、種々(いろいろ)聞き糺(ただ)したが、もう犯人は有徳に違にない。併し様子を聞くと、喰えない《油断が出来ない》奴と見える。」

と聞いて散倉は顔色を変え、
 散「もう澤田實を審問しましたか。」
 田「イヤ大丈夫、審問はしたけれど、君の名前は知らさなかった。」

 散「アア拙者の名前を知らせさえしなければ、それで宜(よろ)しい。あんな正直者だから、拙者が密告した様に思わせては、何れ程立腹するかも知れません。」
 田「實の次には、澤田夫人を呼び出すつもりであったが、夫人は病気で、一命も覚束ないとか云うから、直ぐに小森侯爵を呼び出す筈だ。」

 散「イヤ侯爵は先程、気絶した様子でありましたから、出廷は出来ないでしょう。」
 田風呂氏は暫し考えて、

 「それは困る。此の事件に関係のある人々は、皆病気か。」
 散「実に私しもそれが心配でなりません。澤田夫人が死に、侯爵が死ねば、実際に實と有徳とを取り替えた事を知って居る者が、一人も無くなります。」

 田「その通りだ、是で侯爵が裁判所へ出ない中に死亡すれば、澤田實を小森家へ入れる事が出来ないかも知れない。」
 散「困ったものじゃ。」
と云う言葉がまだ終わらない中に、入り口の戸を開いて入って来る者があった。二人は誰かと振り向いて見ると、噂中である侯爵小森禮堂である。

 禮堂は、死んでいるかと思われるばかりに、顔の色が青くなり、それに身体の力までも抜けたか、一人の従僕(しもべ)の肩に杖倚(すが)り、蹌踉(よろめ)く様に入って来た。田風呂氏は、気絶したと聞いた侯爵の出廷を喜び、散倉に目配すると、散倉は心得て出て去った。

 是で先程、實を審問した時の様に、書記を退け、侯爵を呼び上げて、椅子を与えると、禮堂は丁寧に会釈して、
 禮「お許し下さい、身体に少々申し分が有って、酷(ひど)く大儀なので、腰を掛けます。」
と言って、静かに椅子に就くと、付き添って来た従僕(しもべ)も、その儘(まま)席を退いた。

 抑々(そもそも)昨日まで、傲慢無礼として世に知られた、小森禮堂が、何故にこの様に女も及ばない程に、物優しくなったのだろう、是は全く、自分の罪深い心に迫められ、後悔に気落ちしたために違いない。

 田風呂判事も、逢って見ない前は、きっと無礼な振る舞いが在るに違いないと思い、『こう言って、その傲慢を折挫(おりひし)いでやろう、こう答えて、その無礼を誡(たしな)めてやろう。』などと、心の中に思案を定めて居たが、今目の前、女の様に猫の様になっている姿を見て、張詰めた心も弛み返って、気の毒な思いがしたので、出来るだけ言葉を丁寧にして、

 田「御病気の由承まわりましたが、暫時談話ができますか。」
 禮「イヤ実はナ、有徳が捕縛されたと聞いた時は、大いに驚き、気絶して医者も是切りで、言切れとなるかも知れないと言いましたが、平生が丈夫なので、早速癒(なお)りました。未だ充分とまでは参りませんが、この様に腰を掛けて居れば、談話(はなし)位は差し支えなく出来ます。」

 ここからは禮堂、澤田實と法廷で面会し、又一場の話となる。
 小森禮堂は、過ぎた昔しの自分の罪の恐ろしさに迫(せめ)られ、本来の善心に立ち帰ったか、顔に後悔の色を現して、判事に向かい、

 禮「悪い事は出来ないものです。拙者先年、皇族の身分を以て、イタリア全権大使を勤めた頃、自分の位(くらい)の高きを頼み、裁判の恐ろしさを打ち忘れ、知りながら大罪を犯したが、その罪が今や廻って来て、有徳は人殺しの罪を負い、我が身も裁判所に引き出され、三百年来汚れなき小森の家名までも、汚す事となったのは、全く私の罪です。

 判事閣下よ、有徳の罪は、私の誤(あやま)ちから出たものです。私は若し二十余年の昔に、天地に許されない大罪を犯さなければ、どうして今日の此の事があっただろう。私は甘んじて刑罰を受けるものです。今となっては、隠すのも無駄な事なので、私は隠さず飾らず、過去の罪を白状します。

 閣下願くば、我が云う所を筆記せよ。
 「私の家は、私の為に汚れてしまった。私の家は私と共に亡び、私と共に世間の物笑いとなるだろう。私は責めてもの罪亡ぼしに、此の罪が世間に知られ、私の身が笑われ、嘲(あざ)けられるのを願うばかりです。

 判事閣下よ私は三十年前、父母に強いられて、義理一片の妻を娶りましたが、早くから澤田嬢という、契り交わした女がありました。
 私は澤田嬢にのみ心引かれて、非常に我が妻を苦しめました。今から思えば、私の妻は世に類(たぐい)なき貞女でした。しかしながら、私は貞女を愛せずして、澤田嬢に溺れ、両人の生んだ子を取り替えました。

 澤田嬢は、初めて私の計(たくら)みを聞いた時、非常に私の言葉に逆らいましたけれど、私は澤田嬢を威(おど)し賺(すか)し、終に私は私の心に従わせ、下僕(しもべ)次郎と乳母お伝に言い含めて、二人の子を取り替えさせました。

 今は次郎も死に、お伝も殺されたため、此の事を知る者は、私と澤田嬢の外にはありません。澤田嬢の手許に養うのは、私の嫡子にして、私の許に養って居る有徳は、不正の子です。」
と事明細に言い立てたので、判事田風呂氏は、思ったよりも手易く治まったことを喜び、

 田「然らば貴方は、澤田實を、小森けの嫡男と認められますか。」

 禮「申す迄もなく私は認めます。判事よ、私はその時、若気の到りから、首尾好く取り替えたことを喜んだ。しかしながら、若し有徳の顔を、私の妻に見せたならば、或いは事が露顕するかも知れないと思い、その後、妻を一室に閉じ籠めて、有徳の顔を見せないようにした。有徳は私の手許に置いて、乳母にのみ育てさせた。

 妻は之が為め病気となり、夜昼、有徳有徳と言い続け、最早や一命も覚束ないまでになったので、私は此の世の名残りと思い、自ら有徳を抱いて、妻の病室に行き、その顔を見せたところ、

 妻は一目見て、我が児では無いことを知り、キャッと一声叫んだが、是ぞ此の世の暇乞(いとまごい)となり、その儘(まま)息を引き取ってしまった。

 その時の叫び声は、今もまだ私の耳に在り、私は寝ても覚めても忘られず、時々は夜半にその声を聞いて、魘(うな)される事もある。
 私はその後、幾度か澤田嬢を本妻に直そうと思ったが、思う度にその叫び声が耳に聞こえる様な心地がしたので、之に恐れて、その意を果たさなかった。

 是れは全く私の罪深い神経のなす業なので、一、二年も経つ中には、その声が聞こえなくなる様になるだろうと、空しく月日を送る中、二年三年と過ぎて行ったが、その声は何時になっても消えて行かず、事に触れ、折りに臨んでは、耳を貫くかと思う程に聞こえるのだ。

 その中に、私の友人何某が来て、澤田嬢には、私の外に隠し男がある由を私に告げた。且つその男は海軍の軍人で、常に夜半に来て、暁方(あけがた)に帰る、との事まで知らせて呉れたので、私は秘かに探偵を雇って、嬢の振る舞いを見張らせた。

 或る時、その探偵から、たった今、隠し男が入り込んだ事を知らせて来たので、私は直ぐに嬢の許に馳せて行った所、嬢は毎時(いつ)に替わる事なく、私の首に細い手を廻し、愛情の接吻をしたので、心の疑いは全く晴れ、私は彼の注進の誤りであることを知った。

 私は心の中で、罪なき嬢を疑った事が恥ずかしく、如何(どう)しようかと思って居る時、風(ふ)とピアノの台に目を注ぐと、これは如何した事か、その上に、黒い皮で作った男の手袋があった。全く軍人の用いる品に疑いない。

 私は此の時、活(か)っと怒ったが、事を荒立てては、我が身の恥じと思い、無念を堪(こら)えて帰り、直ぐに離縁状を認め、嬢が許に送った。嬢は驚いて、幾度か言い訳の手紙を私に送って来たが、私は封の儘(まま)で送り返した。その後、嬢は度々私の家に来て、面会を求めたけれど、その度に玄関から追い返した。

 判事閣下、此の時の私の心の苦しみを、察して下され。私は是からして、有徳の血筋を疑い、アア彼は、私の子ではないのか。私は清浄潔白な嫡子を捨て、縁も所縁(ゆかり)も無い者に、小森の家を嗣(つ)がせるのかと思うと、その度、妻の叫び声が耳に入り、居ても立っても、恐ろしさに耐えられない事となった。

 今迄の可愛いさは、悪(にく)さとなり、或る時は短刀を持って、有徳を差し殺そうと思い、又或る時は法廷に出て、嫡子取り戻しの訴えを、起こそうかと思ったけれど、唯だ清き小森家の名誉と我が身分とを考え、自ら思い留まった。

 その心中の苦しさは、身を裂かれるにも勝(まさ)った。判事よ、私は大罪を犯したので、既に充分に罰せられた。今この様に、残りなく白状するまで、二十余年の間、私の心の中の苦しみは、法律に罰せられるよりも辛かった。

 判事よ、私は今迄の苦しみに比べれば、法律の罰は恐れるに足りない。更に聞く事があれば問うて下され。私が知る丈の事は、露ほども隠しはしない。」

と心を開いて、言い立てた事は、小森侯爵その人とは思われない。

次(第二十章)へ

 第十九章は検閲か何かで削除されたものと思われます。
 どの本にも第十九章は掲載されていません。

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