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人耶鬼耶(ひとかおにか) 小説館版
エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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裁判小説 人耶鬼耶 涙香小史訳述
第二章 素人探偵散倉
頓(やが)て探偵烟六(けぶろく)は川端から帰って来て、判事田風呂氏に向かって、
「二日の朝、河蒸気(蒸気船)を見た人が、既に三、四人もあるからは、先ず手掛かりは出来ました。是から此の家を捜索すれば、必ず紛失物が分かりましょう。」
と云いながら座敷を隈なく探し、更に二階へも上がって、戸棚、押し入れ等を調べたが、暫くして降りて来て、
「何(どう)しても盗賊(泥棒)の仕業です。床(とこ)の間に置物の台があって、肝腎の置物が紛失して居る。是も一つの証拠、その外なくてならないと思う品が、大分不足して居ますから、遺恨で殺したとは思われません。耳輪をした男さえ見い出せば、直に分かります。」
と、宛(さなが)ら現場を見たように、独り呑み込んで語るところへ、飛ぶ様に馬車を奔(はしら)せて来たのは、素人探偵の散倉(ちらくら)である。
判事はその手を取って、今まで調査した概略(あらま)しを述べようとすると、散倉は打消して、
「イヤ、概略(あらまし)の所は、使いから聞きました。余り細かに承(うけたま)わっては、反(かえ)って心が迷います。」
と云うのは何も聞かずに、自分一身の調査で手掛かりを探し当て、充分我が手際を、目に立つ様にしようとの心に違いない。判事はその心を見て取り、
「然(しか)らば、早速探偵を始められよ。」
散「畏(かしこ)まりました。」
と言って、家の中へ入って行った。抑(そもそ)も此の散倉と言うのは、巴里(パリ)では有名な質屋の主人で、妻も無く子も無く、今年五十七歳であるが、頭髪禿(はげ)尽くして、前から見れば、坊主のようで、唯だ後ろに三日月を逆さにした様な白髪が残るだけ。
顔は丸くて愛嬌(あいきょう)を留(とど)め、唯だその鼻が、鍵の手に曲がって、高く目立つ程なのは、嚊出(かぎだ)すと云う看板には、持って来いに違いない。
そこで散倉は家の中に入って行って、或いは右、或いは左と、部屋を縦横に駆け廻り、或いは二階に上り、或いは降りて来て、俯向(うつむ)いて、テーブルの下を覗くかと見ると、伸び上って柱時計を調べ、
或いは取散してあるスプーンの裏を嘗(な)めてみたり、或いは竈(かまど)の傍にある、鍋の底を嚊(か)いで見るなど、凡そ三十分ばかりも事細かに調べたが、それから庭に出て、石を動かし又土を掘るなどして、次第次第に門の外まで、這(は)うようにして目を地に迫付(せりつ)けて調べ出した。
或いは、革の物指しで、石段の高さを測り、或いは鉛筆で、庭木の配置を書き写すなど、殆んど狂人かと思われるほどに、探し窮(きわ)め、何処かへ立ち去ったが、三十分ほど経って、人々が欠伸(あくび)をする所へ、提(さ)げ鍵を持って帰って来て、恭(うやうやし)く判事に向かって、
「おおよその見込みは附きました。」
と云いながら、籠(かご)の中から土の塊り、紙の切れ、ノートなどを取り出して、テーブルの上に並べ、
「第一此の犯罪は、盗賊(どろぼう)ではありません。」
と云うと、傍に居た頑固者の烟六(けぶろく)は、居丈高(いたけだか)《相手を威圧するような態度》になり、
烟「盗賊(どろぼう)でないとは失礼だ。拙者の見込みに逆らうのか。」
散「イヤ、証拠は追々申し上げます。次に此の罪人は、一昨夜の九時より前に参りました。その証拠は、先日来、日照り続きのところ、御存知の通り一昨夜九時半頃、急に雨が降り出しましたから、若し雨中に来たものなら、靴の裏に泥が附き、その泥が絨毯(じゅうたん)に着いて居る筈です。
それなのに、泥の足跡が認められないのは、雨より前に来た証拠です。それにテーブルの下を見ると、丁度男の靴を置いたような埃(ほこり)があります。此の埃りは往来で靴へ着いて来たもの、泥と埃(ほこり)の見別け位は、三歳児にも出来ましょう。
此の者が入って来た時、お伝は丁度衣類(きもの)を脱いで、目覚まし時計を捲こうとして居ました。
烟「その証拠は。」
散「イヤ此の柱にある目覚まし時計は、SB会社の三等の品ですから、一度捲けば十二時間廻ります。毎夜お伝は寝際と朝起きた時と、即ち大抵十二時間毎ぐらいに、此の時計を捲きました。何故ならば、寝際に捲かなければ、目覚ましの役に立たないからです。
又寝際に捲けば、朝捲かなければ止まります。そこで此の時計が御覧の通り九時に止まって居るのは、一昨日の朝六時過ぎから七時頃に捲いたので、その儘(まま)夜に入って捲かなかったから、九時に留まりました。
しかしながら、此の時計の下に椅子があって、椅子の中程が凹んだ儘(まま)で居る所を見れば、是から捲こうと思って、椅子に片足を掛けた所で、丁度表を叩かれたから、捲かずにその儘(まま)戸口に行ったのです。
それからお伝の着物は寝巻ですが、未だ昼着ていた着物を仕舞(しま)わずに、その儘(まま)打遣(うっち)ってあるのは、ヤッと寝巻に着替えたばかりの時、其処(そこ)で音がしたから、直ぐに椅子を降り、取り敢えず肩掛けを纏(まと)って、出て行きました。
死骸の傍にあるのが、その肩掛けで、之は痛手に揉(もが)く時、独りでに外れたので御座います。
ですから、此の通りお伝が急いで戸口へ出た所を見れば、その人は他人ではなく知人です。
田「なる程。」
散「先ず之で、男が此の家へ入った所までは、分かりましたが、扨(さ)て、その男と云うのは未だ年若く、身の丈五尺四、五寸(162cm~165cm)、非常に立派な着物を着、黒い高帽を被(かぶ)り、右の手に蝙蝠(こうもり)傘を持って、巻煙草を烟管(パイプ)に挟んで、口に咥(くわ)えて居ましたので。」
烟「君は余り作り過ぎる。」
散「決して作りは致しません。探して見出した儘(まま)を申しています。」
と云いながら、油で練った聖土(ねばつち)《粘土》の塊を取出し、是は罪人が穿(は)いて居る靴の踵(かかと)を雛形に取ったものです。此の前の溷(どぶ)の端の、日照(ひでり)にも濡れて居る所へ、一つ踏み込んであります。
又此の紙に写した図は、向こうの砂利に踏み込んだ靴痕(くつあと)です。砂利に残る痕(あと)は、雛形に取れないので、紙へ鉛筆で写しましたが、大体の形は分かります。
サア見て見なさい。此の踵(かかと)が高くて細い事は、当時洒落者社会に流行の靴で、此の田舎人などは、決して穿(は)きません。
烟「イヤ家の外にある靴跡は、入った悪人の靴とは云えません。唯外を通った人の足痕(あしあと)かも知れません。」
散「イヤ、拙者は庭の中を隈なく探して、此の靴の痕が右と左と、二つあるのを確かに見い出しましたが、是は必ず、入り口にある四角な花壇を踏まない為め、足に力を入れて、ヒョイと飛び越すそのはずみに、後ろの足の跳ねた所と前の足の落ちた所とへ、右左の靴痕(くつあと)が、へこんで出来たものに極まって居ます。
それでその右の足と左の足の距離が、五尺(150cm)ばかり離れて居るから、此れも飛び越えた証拠で、これが老人ならば、二尺(60cm)ばかりの角だから、飛びはしない。必ず迂回(まわ)ります。是で先ず、若い元気な人と云う事だけは、分かりましょう。
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