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裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」  小説館版

エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2024.9.20

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       裁判小説 人耶鬼耶     涙香小史訳述

         第二十章 候爵禮堂と實の出会い

  判事田風呂氏は侯爵小森禮堂の白状を聞き終わり、極めて真面目な声を出し、
 「貴方は実に法律に背(そむ)き、道徳に背いた大罪を犯し、それが為め、今日真の子にまで、非常な苦しみを掛ける事になりました。今となっては、唯貴方の力に及ぶだけ、此の罪を償(つぐな)う外はありません。」

 禮「素より力の届く丈は、如何様にも償います。」
 田「償うと云っても、何の様にして償うお積もりであります。拙者の言う事が分かりましたか。」
 禮「分かりました。合点が行きました。」

  田「それは誠に結構です。取り分けて、澤田實と云う者は、その容貌から心まで、世に珍しい青年で、貴方の実子と申しても、少しも愧(は)ずる所はありません。有徳を追い出しても、決して後悔なさる事はありません。」
 
 禮「イヤもう有徳は、何うせ殺されますから、その血は即ち拙者の罪を、洗い清める事と、同じ道理で有ます。」
と既に有徳の死刑となる事を、知って居る様に述べたので、田風呂氏は不審に思い、

 「それでは貴方、確かに有徳がお伝を殺した事を、御存知でありますか。」
 禮堂も不審の顔で、

 禮「「ヤ、それでは未だ、貴方の方で確かに有徳と云う、確信は附きませんか。拙者は又た、苟(いやし)くも皇族と呼ばれる者を、捕縛したからは、貴官に於いて、充分な証拠があるからの事と思いました。」
と言い返えされて、田風呂氏は我が言葉の滑ったことに、初めて気が附き、思わず後悔に唇を噛んだ。

 抑々(そもそも)禮堂が、今迄少しも隠さずに白状したのは、全く有徳が、既に罪があるに定まっていると、思ったことに由ることなのだ。有徳は、既に人殺しの証拠がある上は、如何に陳弁しても、その功なしと思い、我を折って白状したのだ。

 然るに、今、有徳の罪は、未だ孰(いず)れとも、定まっていない事を知った時、禮堂の心が変わって、口を開くにも、充分用心し出し、成るべく有徳の為めに、悪しき事を押し隠(かく)そうと思うのは必定である。

 田風呂氏は、只管(ひたすら)に、自分の言葉の粗忽なことを悔(くや)んだが、今更如何しようもないので、何でもない風を装い、
 田「貴方は此の密事が、澤田實に洩れた事を、何時お聞きになりました。」
 禮「拙者は昨日、日耳曼(ぜるまん)《ドイツ》から帰って来て、初めて此の事を聞きました。」

 田「誰に聞きました。」
 禮「有徳に聞きましたが、若し有徳が、此の罪を犯しさえしなければ、有徳こそ実に潔白の男子であります。」
 田風呂氏は驚いて、

 田「それでは貴方、有徳が此の罪を犯さない証拠でもありますか。」
と問うたが、此の問いこそ、田風呂氏が重ねての失策だった。アア、誤ったと悔やんだが、追い付かない。流石の禮堂、早くもその心中を見て取り、

 禮「判事よ、貴方のその問いは、ひどく拙者の心を動かします。拙者は今迄、有徳を罪ある者とのみ思い、充分彼れを憎(にく)んで、申し立てをしましたが、貴方の今のお言葉を聞いて、未だ彼の罪は、定まっていない者と存知ます。併し一旦申し立てた事は、後へは引きません。是からは唯、昨日有徳が言った事が、彼の誠の意(こころ)から出たものならば、是ほど潔白な行いは、ありません。」

と言って、是から昨日、有徳が澤田實の事を話し、我が身は民間に下って、實を小森家の嫡子に直すと言った顛末を、落ちもなく述べ立て、更に云うには、
 「拙者は、我が小森家の恥辱と思い、飽くまでも澤田實を退(しりぞ)けると云ったが、有徳は更に聞かず、それでは許嫁の呉竹姫を捨てても、それでも民間へ下る気かと、問うたところ、有徳は既に決心して、呉竹姫にも打合せて置いたと、申しました。」

と述べたが、呉竹姫と云った一言は、宛(あたか)も田風呂氏の耳へ、雷の様に聞こえ、俄(にわ)かに胸騒ぎが起きて、顔色が火よりも赤くなるのを感じた。田風呂氏はその顔色を、覚られない様にしようと、花瓶の影に顔を隠したが、此の時、良心に立ち帰り、

 田「アア、我れこの様な事に、心を動かす様では、此の裁判は勤まらない。初めから、他人に譲らなかった事が浅はかだった。」
と我と我身を迫(せめ)たけれども、今は事既に遅く、引くにも引かれない場合なので、漸(ようや)く気を取り直し、今禮堂が申し立てた事を、心の中に繰り返して、有徳の振る舞いを考えて見るに、彼は尋常に澤田實と、入れ代わろうと言ったことは、即ち父の心を暗まして、併せて裁判官の判断を、迷わそうとする計画に違いない。

 先程探偵散倉が、有徳は偽証を作ったと云ったのは、茲(ここ)の事に違いない。是まで我が扱った罪人のうちにも、種々の偽証を作った者は、数多くあったが、これ程までに巧(たく)みに作り設けた者は未だ居ない。

 是からしても、有徳が世に類いない奸知に長け、人を欺くのが絶妙な事は分かった。我は今、油断したなら、有徳の奸智に欺かれ、如何なる過った裁判を下すかも、計り知れない。心弱くては駄目だと、しっかりと思案を定めると、精神は復(もと)に立ち帰って、何時もよりも爽やかになった。

 是に漸(ようや)く頭を上げ、
 田「成る程有徳殿の申し分は、拙者までも、その心中の潔白な事を感じた。しかしながら、当裁判所に於いては、有徳が、貴方の心を暗(くら)ます為、前から計画していた事とだと言う外は認めません。」

 禮「若し企(たくら)んだ者とすれば、実に旨(うま)く企んだ者で、拙者も一時は、アア感心な奴だと、思いました。」
と言う折しも、先程退いた書記が入って来て、
 書「澤田實が、証拠書類を届けて参りました。」
と知らせると、田風呂氏は
 「澤田氏を茲(ここ)へ通せ。」
と言った。

 書記が心得て、引き退く後へ、入れ代わりに静々と歩み来たのは、法学士澤田實である。實は父である小森禮堂には気も附かず、直ちに判事に向かい、
 實「先刻お約束致しました手紙は、此の蟇口(がまぐち)に入れてあります。私しは澤田夫人が、益々病気が重くなり、危篤なので、是で直ちに御免蒙ります。」

と言い捨てて、帰ろうとすると、そうと聞いた禮堂は、澤田夫人の名を聞いて、昔しの愛情を思い出したか、様子を問いた気に、その口を動かした。此の時、判事は突(つ)と立って、澤田實の手を捕らえ、禮堂の前に連れて来て、

 田「侯爵小森禮堂氏よ、私は澤田實氏を、貴方に紹介します。」
と言うと、禮堂も椅子を離れ、父子(おやこ)初めて、顔と顔と突き合わせたけれど、両人は互いに、先方の心を探ろうとする様に、睨み合いの姿で、一言も出さない。
 田風呂氏は禮堂に向かい、

 「侯爵よ、澤田氏は貴方の正当の嫡男(ちゃくなん)ですぞ。」
と言うのに、實は之に力を得て、
 實「侯爵閣下・・・私しは、私しは・・・」
 禮「侯爵閣下ではない。其方の父じゃ、阿父(おとつ)さんと、言うが好い。」
と言うのを聞いて、實は思わずも涙を流し、

 實「お懐かしう御座います。」
と言う声さえも震えて居た。


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