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裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」 小説館版
エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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裁判小説 人耶鬼耶 涙香小史訳述
第二十三章 ぴったり合致する証拠
田風呂判事は有徳の弁舌に切立てられ、暫し困(こま)っていたが、これでは果てしがないと思案を変え、
「コレ有徳、其方(そなた)は、去る四日の夜八時から十二時まで、何処に居て何をしていた。明らかに申し述べよ。」
と問掛けた。
此の時まで有徳の返答は、宛(あたか)も響きの物に応じる様で、少しの澱みも無く注ぎ出ていたが、此の問には少し怯(ひる)んだ様子で、
「へ、去る四日の夜で御座いますか。」
とわざとらしく問い返えしたのは、その中に考えを纏(まと)めようとしての、戦略に違いない。
田風呂氏は秘かに、
「〆めた,〆めた。」
と小躍(おど)りしながら、
田「そうだ、四日の夜の八時から十二時まで、何を致して居た。」
有「お尋ねでは御座いますが、充分の御返事は出来ません。私しは記憶が弱くて・・・・。」
田「別に記憶の要る事ではない。是が十日前とか一月前とか云うならば、思い出されない事も有ろうが、四日と云えば一昨々夜の事だ。今日はコレ七日であるぞ。」
有「それでも充分には覚えてませんが、何でも散歩をして居たと存知ます。」
田「シテ、夕飯は何処で喫(た)べた。」
有「我が家で喫ました。是は毎例(いつも)の通りで御座います。」
田「イヤ毎例(いつも)の通りではない。其方(そなた)は平生酒を嗜(たしな)まないのに、此夜に限り、食後に一杯のブランデーを取り寄せ、一息に吞み干したと云うが、即ち是から非常の仕事をしようと考えて、勇気を附けたので有ろう。」
有「何も非常の仕事はありませんでした。」
田「無い事はあるまい。其方が食事を終わった頃、二人の友達が来たのに、其方は大事の用があると言って、面会を断ったと云うが、即ち是が何よりの証拠である。」
有「イヤ大事の用はなくても、あると云うのが客を断わる通例の挨拶であります。」
田「何故客を断った。」
有「御存知の通り、私しは何となく心が鬱(ふさ)ぎ、怏々(くさくさ)しますから、酒を吞みました。面会も断りました。」
田「当法廷に於いては、其方が尊長村の、お伝の住所へ行く為めの用意に、酒を飲み又面会を断ったと認定する。それに其方は、その時、口の中で、
「女だから己(おれ)に勝つ事は出来ない。」
と呟(つぶや)いた云うが、その女とは誰の事だ。」
有「それは、私しがその日の昼過ぎに手紙を出し、頓(やがて)返事を受け取った女の事であります。」
田「その返事の手紙は何う致した。」
有「焼き捨てました。」
田「焼き捨てたのは、証拠を隠す為で有ろう。」
有「決してそう言う事ではありません。その手紙は、唯私しとその女だけの用事で、他人に示すべきものでないので、焼き捨てました。」
判事田風呂氏は、その女とは、呉竹姫であることを、知って居るため,押してその名を問えば、我が顔色が変わりはしないかと、暫く躊躇(ためら)ったけれど、問はなくては済まない事だと、気を励まして、
田「その女の名は何と云う。」
有「女の名前は、申し上げる事が出来ません。」
田「コレ有徳、当法廷へ出る上は、隠すことは為めにならない。有のままに申立てよ。」
有「ハイ自分だけの事は隠さずに申し上げますが、他人の事は申されません。」
と明らかに言い切った。判事は又も初めに立ち帰り。
田「其方は、四日の夜夕飯を喫(た)べ、酒を飲んだ後で、何を致した。」
有「直ぐに我が家を立ち出でました。」
田「イヤ直ぐでは無い。其方は次の間に行き、暫(しばら)く煙草を吞んだで有う。」
有「ハイ」
田「その煙草は何の種類じゃ。」
有「虎箱と申す煙草であります。」
田「其方は煙管(パイプ)で吞んだのか。」
有「毎例(いつ)も煙管(パイプ)を用います。」
田「シテ何時頃に家を出た。」
有「八時頃で。」
田「其方は蝙蝠傘を携(たずさ)えたか。」
有「ハイ」
田「家を出て何処へ行った。」
有「所を定めず、ブラブラと歩き廻りました。」
と取り留めも無い答に、判事は意外な思いがして、腹の中で、
「ハテな、散倉(ちらくら)の説では、有徳は必ず偽証人を沢山拵(こしら)えてあると云ったが、此の様子では、偽証人を作って居ないワい、而(し)て見ると、偽証人と云う陳腐(ふるくさ)い手を止めて、それよりも一層巧みな、謀事(はかりごと)でもあるのか。」
と考えながら言葉を継ぎ、
「何の当度もなく唯散歩したのか」
有「ハイ」
田「散歩の道筋を順に申立てよ。」
有「それは一々覚えて居ません。私しは唯だ、怏々(くさくさ)してならなかったので、心の中に自分の身の行く末を考えながら、夢中を辿(たど)る様に、浮々と歩みましたので、道筋は少しも覚えていません。」
と聞いて、田風呂氏は声を上げ、
田「道筋を覚えていないなどと、その様な事があるか。」
と叱り附ける様に言い放ったが、心の中には、自分にも現に、その覚えがあるに違いない。先に呉竹姫に、婚姻の申出を拒まれた時、田風呂氏は我が身自ら、夜となく昼となく、夢中になって、パリの町々を歩いたことを忘れはしない。
しかしながら、今は唯だ、首尾好く此の裁判を仕果(しおお)そうと思う一念なので、その様な事を思い出す暇は無く、その儘(まま)更に問返し、
田「シテその方は、その道で誰か知る人に逢わなかったか。」
有「ハイ、誰にも逢いません。」
田「逢わないならば、その方の身に取り、此の上も無い不幸せだ。お伝が殺されたのは、丁度四日の夜の八時から十二時までの間である。其方、若し自分の罪なきを証拠立てたければ、明らかに道筋を申し立て、その夜、尊長村へは立ち寄って居ないと云う証拠を、挙げなければならない。」
と言うのを聞いて、有徳は非常に驚き、
有「ヤヤ、お伝の殺されたのが、丁度その時刻でありますか。判事閣下、私は実に不幸せであります。その道筋は何うしても思い出す事が出来ません。」
と途方に暮れた申し立てであったので、判事は益々怪しんで、
田「ハテな、まだ偽証人を立てないとは、愈々(いよいよ)不思議じゃ、是では言い開きにはならないが、フム何処まで強情か分からない奴じゃ。」
と独り頷首(うなず)き兼ねて、テーブルの下に集めて置いた、証拠物を一々取り出し、
田「是から其方の罪となる証拠を、一々申し聞かせる。サ此の短刀に覚えがあるか。』
と言って、「小有」の二字を記してある短刀を取り出して見せると、
有「私しの品であります。」
田「お伝を殺した賊は、是と同じ短刀を持って居た。コレ此の肩掛けを見よ。現にその血を拭った跡を見れば、大きサと云い、形と云い、尖(さき)の刃の折れた所まで、是と寸分の違いがないぞ。」
有徳は手に取って見て、太(いた)く驚き、
有「成る程、是は此の短刀に違いありません。」
田「イヤ是ばかりではない。その方の靴と、罪人の足跡を、比べると、指の先から、踵に至るまで、少しも違わぬ。コレ此の図が、砂場に残った靴の痕を比べたものだが、指の先から踵(かかと)に至るまで、少しも違わない。又此の土は足痕(あしあと)の凹みに流し込んだ、粘土(ねばつち)の雛形である。
之を其方(そなた)の靴と較べて見よ。とりわけて其方の靴は、世に類の少ない形である。此れでも言い開きが立つか。」
と道理を攻めて、言い込まれたので、有徳は顔の色が青くなり白くなり、
有「何うも不思議に好く似て居ます。」
田「似て居るのではない。同じ事じゃ、又此の土は、犯人が蝙蝠傘を杖に突き、その先の土に入った所を、その儘(まま)堀だして来た。コレ此の穴と其方の蝙蝠傘の頭を、比べて見ろ。別物とは思われない。」
有「ナル程、密合(しっく)り嵌(はま)ります。コレは実に奇妙で御座います。」
田「まだある。其方が四日の夕方、吸いながら出で行ったのは、虎箱の巻煙草であるが、此れを見よ。此れはお伝の家に落ちて居た、吸余(すいがら)だ。同じく虎箱の巻煙草、それは同じ煙管(パイプ)へ嵌(は)めた者である。」
と益々攻め入る判事の言葉に、有徳は戦々(わなわな)と震いい出し、
有「実に好くも好くも、ここまで合致した者です。人間業とは思われません。アア私しの力では、此の証拠に勝つ事は出来ません。実に不思議とも奇妙とも、申し様がありません。此の様な合致が何うして出来たかと怪しみます。」
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