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裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」 小説館版
エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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裁判小説 人耶鬼耶 涙香小史訳述
第二十四章 犯行を否認する有徳
田風呂判事は有徳が恐れ戦(おのの)く様子を見て、今一層の証拠を示せば彼れは、必ず恐れに堪(こら)える事が出来ずに白状して、憐れみを乞うことになるだろうと思うと、間を置かずに、彼(あ)の手袋を取り出し、言葉に百倍の力を込めて、有徳に向かい、
田「此れまでの証拠は、最早や否定する事は出来ない。
その上更に一つ明らかな証拠は、此れ此の手袋である。お伝を殺した犯人は、小山羊(こやぎ)皮で作った、緑色の手袋を嵌(は)めて居る。それをお伝は、死に物狂いになって、攫(つか)み取ったので、その爪の中に、皮の分子が残って居た。
即ち此れなる硝子の箱に入れてあるのが、その分子じゃ。熟(よっ)く見よ。緑に染めた小山羊の皮に、相違あるまい。コレ其方が四日の夜に嵌めて出た手袋には、此の通り強く引っ搔いた痕がある。見よ緑の皮が擦(こす)られて、白く斑点(まだら)の条(すじ)があるではないか。両方を好く比べて見よ。色と云い皮と言い、寸分の違いはあるまい。何うだ有徳、返事があるか。」
と証拠物を目の前に突き附ければ、左しもの有徳も、堪(たま)り兼ねたか、額(ひたい)から脂汗を流し、手は戦々(わなわな)と震えて、証拠物を受け取ることさえ出来ず、且つ口唇(くちびる)が全く乾いてしまったので、言おうとするが言葉は出て来ず、漸(ようやく)くにして、非常に渋枯(しわが)れた声を発し、
有「実に、実に、恐ろしう御座います。」
判事は茲(ここ)だと思い、少しも間を置かずに、引き続いて筒袴(ズボン)を取り出し、
田「是は其方が、四日の夜に穿(は)いて出た、筒袴(ズボンん)である。之を取り押さえた時は、まだ濡れて居た。その上此の通り破れている。其方は四日の夜に、何所を何う散歩したか知らないと言ったが、筒袴(ズボン)を引き裂いたのも、知らないと云うか、手袋を掻き扜(むし)られたのも、知らないと申すか、虚々(そらぞら)しい言い抜けを、誰が信じると思うか。」
と百貫(375Kg)の金槌で熱鉄を打挫(ひし)ぐ様な勢いで、問詰ると、有徳は心狂乱したか、後ろにある椅子に、動(どう)と倒れ掛かり、
有「恐ろしう御座います。私はもう発狂します。」
田「好く聞け、この様に、重ね重ねの証拠が出るからは、お伝を殺したのは、其方の外に無い。即ち其方はお伝を殺した者である。」
有「私は迚(とて)も此の言い訳は出来ません。全く此の有徳は、恐るべき落とし穴に落ちました。是きり殺されても、此の有徳は無罪であります。決して罪を犯しません。」
田「犯さないとならば、四日の夜は何所に居た。」
有「何所となく散歩致しました。その道筋は忘れました。」
田「忘れたとならば、私の方が申し聞かせよう。其方(そなた)は四日の
夜八時頃、酒の力を仮りて、恐るべき決心を起こし、我が家を立ち出でて、三十五分過ぎに、羅猿(らざる)の停車場で汽車に乗り、九時少し前には、楳木場の手前の停車場で汽車を降り、尊長村に行ったのである。
二十五分にお伝の出入り口を叩き、直ぐ様、奥の間へ通ったのである。その時酒の酔いは少し醒めたので、又も一杯のブランデーを命じ、充分の勇気を引き立て、十五分ばかり経った頃、此の短刀を持って、後ろからお伝を殺したのである。
其方はそれから、家の内を捜索し、入用の書を取り集めて、残らず焼き捨て、次には探偵の目を眩(くら)まそうとして、金目の品物を手当り次第取り出し、盗賊(どろぼう)の仕業と見せ掛けたのである。
是で此の家を立ち出(い)で、入り口の戸を鎖(とざ)し、その鍵を溷(どぶ)に投げ込み、一走りに瀬音川の辺(ほとり)に着き、向かう河岸に廻って、品物を投げ捨て、再び汽車に乗って帰ったのである。
有徳よ心を開いて聞きなさい。既にこの様に明らかになったからは、強情を打ち捨てなさい。其方(そなた)の心を入れ代えなさい。法廷は決して其方を憎(にく)まず。何故早く白状しないのだ。
有のままに白状すれば、其方(そなた)の非情なる情実を察し、其方の頼りない身の上を考慮し、憐れな其方の失望の心中を、憐(あわ)れみ、及ぶだけの恩命を施してやる。白状しないか。小森有徳、白状しないか。如何(どう)だ、如何(どう)だ。」
と世にも稀な雄弁を棹(ふる)い、説き聞かすと、その一言一句は悉(ことごと)く、有徳の心中を貫くかと疑われ、有徳は今にも判事の前に平伏し、憐れみを請おうとする様子充分に見えたので、田風呂氏は早や事が成ったと思いの外、有徳はまだ屈せず、起直(たちなお)って判事に向い、
有「判事閣下の仰(おお)せは、一々御尤(もっと)もではあります。何から考えても、此の度の犯人は、此の有徳の外には見えません。私し自ら、我が身を疑わしく思う程であります。しかしながら、私しは決して犯人ではありません。」
田「コレ好く聞け・・・。」
有「イヤ私しは犯人ではありません。固(もと)よりこの様に証拠の挙がる上は、一言も言い開きは附きません。現に私しが、この様に恐れ戦(おのの)いて、音声の震えるのも、私しが罪の証拠と見えましょう。私しは余りの不思議さ、余りの恐ろしさに、心を奪われ、言葉さえ出ない事となりました。
私しの言い訳は通りません。通るだけの言い訳はありません。私しの一命は、最早(もは)や逃れる道もなく、判事閣下に献じます。それでも私しは犯人ではありません。決して罪は犯していません。」
田「犯さないと云っても証拠がある。」
有「証拠があっても犯していません。」
田「それでも証拠が。」
有「それでも犯していない。」
田「それでも。」
有「それでも。」
田「それでも。」
有「それでも。」
と争い、果てしが無いので、判事は持て余し、今暫(しばら)く休ませたならば、彼が本心に立復(たちかえ)り、強情の無益な事を悟って、白状する事もあるだろうと思い直して、有徳に向かい、今日は之で一先ず閉廷する旨を告げ、先程から陳述した事の筆記を読み上げて、之に有徳の名を記させ終わって、直ちに憲兵を呼び入れ、又も有徳を元の牢屋へ送り帰した。
その後に田風呂氏は、テーブルに俯向(うつむ)いて、心を悩まし、
「アア是だけの証拠があれば、直ぐ様公判に廻しても充分であるが、唯彼は昔の怨みがあるだけに、軽はずみ事をしてはならないと思い、充分に白状させようと勉めたが、白状しないのには困った。強情な男だ。
散倉(ちらくら)の説では幾等強情でも、手錠一つ見せれば、必ず白状すると云ったが、手袋ドコロか、残らず証拠を見せても、現在恐れ戦(おのの)きながら、未だ白状しない。アア難しい役目に当たって、今更後悔千万だ。」
と独り考え込んだ所へ、裁判の様子は如何にと、待ち兼ねて居た、探偵散倉、息も世話しく入って来て、田風呂氏の背を叩いて、
散「白状しましたか。」
判事は漸(ようや)く我に帰り、
田「イヤ勿々(なかなか)白状しない。」
と聞いて、散倉は非常に驚き、
「白状しない。それでは偽証を沢山持ち出しましたでしょう。」
田「一つも偽証を出さないのサ。」
散倉は飛び上り、
「それは不思議だ。白状もせず、偽証も出さず。」
と言って暫く考えて居たが、忽(たちま)ち顔の色を変え、涙を出しそうな声を出し、
散「ハア大変大変、それでは有徳は犯人ではありません。必ず真事(まこと)の犯人が外にあります。アア、有徳は犯人では無い。罪で無い者を牢に入れて、取り返しの附かない失策を遣(や)らかした。是では本当の犯人は、益々以て容易ならない奴だ。
片時も早く探偵を仕直さねばならない。田風呂氏よ、此の調べは暫(しばら)く待たれよ。散倉が一生の失策です。」
と禿頭を撫で廻しながら言い立てた。抑々(そもそ)も散倉は発狂したのか。十の者を九つまで仕上げた今に至って、急にその説を変えるとは、不思議と云うも余りある。
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