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裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」  小説館版

エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

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       裁判小説 人耶鬼耶     涙香小史訳述

        第二十五章 有徳は犯人では無い

 探偵散倉の意外なる言葉に、判事は思わずも笑いを催し、
 田「君は全体何を云うのだ。もう犯人は充分に分かって居る。白状こそしないが、その様子と云い、言葉附きと云い、特に四日の夜に、何処を散歩したか知らないなどと、是が何よりの証拠だ。拙者も随分犯人を取り扱ったが、是ほど見事に証拠の揃った例しは無い。

 是と云うのも、全く君の尽力だ。未だ疑わしく思うなら、裁判筆記を読んで見たまえ。」
と云われて、散倉は領首(うなづ)き、書記の後ろに廻り、その帳面を借り、瞬溌(まばたき)もせず読み初めたが、十分も経たない中に、早くも読み尽くし、益々顔の色を青くして、

 散「何うしても此の犯人は、外にあります。有徳は無罪です。」
 田「君は今の筆記を何と読んだ。今から老耄(おいぼ)れては了(いけ)ないよ。」
 散「イヤ決して老耄(おいぼれ)は致しません。此の筆記を読めば、益々有徳の無罪が分かります。有徳の返事は一句一言、悉(ことごと)く無罪の証拠であります。

 我が身に暗い所があれば、決してアノ様な返事は出来ません。我が身に覚えがないのに、余り証拠が合致したから、心の中で恐ろしくなったのです。本当の罪人ならば、充分に言い抜けようと致します。然るに彼が、一言も言い抜けようとはせず、只管(ひたす)ら無罪を言い張るのは、何よりの証拠であります。田風呂氏よ、罪も無い有徳を、此の儘(まま)牢屋へ留め置くのは、実に可哀想ではありませんか。」

 田風呂氏は少し立腹した様な声で、
 田「君は全体何うしたのだ。昨夜は拙者に向かって、一刻も早く有徳を捕縛しなければならないと言って、無理に逮捕状を認(したた)めさせ、更に今朝は、有徳が寝込みを捕らえて、我が手柄を誇りながら、今となって、その様な意外な事を云うとは、拙者の胸には落ちません。」

 散「イヤそれが拙者の一生の誤りです。必ず外に犯人がありますから、此の裁判ばかりは、暫(しばら)くお見合わせを願います。」
 田「イヤ、この様に証拠が揃っている者を、一刻も永く未決監へ留め置く事は出来ません。明日、更に一応取り調べれば、充分彼を白状させる手段があるので、直ちに公判廷へ廻します。之をぐづぐづしていては、拙者の手落ちになります。」

と云いながら、早や四辺(あたり)の証拠物などを取り片付け、退庁しようとする様子に、散倉は涙を流し、
 散「田風呂氏よ、今、有徳を公判に廻せば、何の様な陪審官でも、必ず有徳を有罪と認めます。若し有徳が処刑になった後で、真(まこと)の犯人が出たならば、何う致します。君の名誉も拙者の名誉も、是切り亡びます。」

 田「君も分からない事を云う。既に是だけの証拠があって、公判廷へ廻すのに、何の名誉に障(さわ)るものか。この様に明らかな証拠を押さえながら、此の儘(まま)打ち捨て置けば、田風呂は、証拠を見るだけの眼がないがと、人に笑われます。自分の職務を軽(かろん)ずるに当たります。

 又現に有徳が犯人だと云う事は、争い様がありません。何の様な弁護人でも、此の証拠を破る事は出来ません。それを何ですか、有徳が処刑を受けた後から、真の犯人が出て来るなどとは、拙者一切合点が行きません。それとも別に疑わしい人がありますか。」

 散「サ、その疑わしい人が、未だ無いから、お待ちを願うのであります。探偵を仕直すのであります。誰にか疑いが落ちるまで、是ばかりは御猶予を。」
 田「イヤ既に証拠のある犯人が捕まったからは、無理に外の人を疑って、探偵を仕直すなどと、その様な事は出来ません。

 それこそ罪なき人を、捕らえるの元となります。それでも君が、物数奇(ずき)に探偵を仕直すのは、随意でありますけれど、拙者に於いて、そう致せと云う事は、決して出来ません。既に有徳の証拠が出たからは、君は探偵の役目だけは済ましました。是から後は予審判事である拙者の役目です。

 拙者の役目は、此の犯人を証拠と共に、公判の判事へ引き渡すだけの事ですから、誰が何と云おうが、役目だけは尽くします。」
と固く云いながら、早や立上って書記に向かい、

 田「コレ、今夜の中にも、有徳が熟々(しみじみ)後悔して、白状の為めに、拙者に逢いたいと、云うかも知れない。その時は夜が夜中でも、直ぐに拙者を迎いに寄越す様、牢番へ伝えて呉れ。」

と云い捨て、証拠物を纏(まと)め、早や立ち去ろうとするので、散倉は周章(あわて)てその上着の裾を引き留め、
 散「君は余り固(かた)過ぎます。幾等役目でも、無罪の有徳を罰してはなりません。此の散倉を助けると思って、三日の間御猶予を。」

 田「イヤ外に、此の者が怪しいと云う、充分な証拠があるなら兎に角、唯だ君の想像だけでは、証拠を打ち消す事は出来ません。」
と言って、その儘(まま)法廷を立ち去ったので、後に残った散倉は、失望の余り、書記に、

 散「書記さん、先ア聞いて下さい・・・・・。」
 書記「イヤ僕に、その様な事を言っても駄目だ。もう夕飯の肉汁(スープ)」が冷たくなる時刻だから、君の愚痴を聞く暇はない。失敬。」
と云い放って、之も公廷を退いた。散倉は悄々(すごすご)として、裁判所を出たが、口の中(うち)で、

 「アア有徳は何うしても無罪だ。それを捕らえて、無理にも牢へ押し込めたのは、此の散倉だ。判事は未(ま)だ年が若いから、職務を大事にして彼(あ)ア云うのも、無理はない。

 実に失策(しくじ)った。爾(そ)う云う中にも、有徳が牢の中で、失望の余り自殺をしなければ好いが。此の間も無罪な奴が自殺して、その後から本当の犯人が現れた。困ったものだ。」
と呟(つぶや)きながら帰って行った。



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