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裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」  小説館版

エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

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       裁判小説 人耶鬼耶     涙香小史訳述

        第二十六章 實を屋敷に連れ帰る禮堂

 是より澤田實と小森礼堂の話しに移る。法学士澤田實は、法廷に於いて初めて父禮堂に面会し、禮堂を自分の肩に扶(たす)け、裁判所の門前に出て、首尾好く馬車に乗せると、車の外から恭々(うやうや)しく父に向い、

 實「此の次ぎは、何時に御面会をお許し下さいます。」
と問うと、禮堂は少し考えたが、
 「直ぐ様、わしと一緒に参れ。」
と言って、馬車の上から手を差し延べたので、實は一言二言辞退したが、気難しい父の言葉に、完全に負(そむ)けば、為めにならないだろうと、

 實「それではお言葉に甘え、お馬車の傍(かたわら)を汚します。」
と言って、まるで猫の前に出た鼠の様に、小さくなって、禮堂の傍(かたわら)に打ち乗った。頓(やが)て馬車は家路を指し馳せ出し、二人はまだ父子(おやこ)と云うには、名のみで、心に充分の隔てがあるので、一言の話しもなさず、互いに顔を負(そむ)けて居る中に、馬車は早くも禮堂の門前に着いた。

 實は直ちに飛び降り、父禮堂は直ちに實の手を取り、我が居間に誘い入り、悉(ことごと)く下僕の者ものを退け、實と顔を合わせて椅子に着いた。両人(ふたり)は唯だ睨み合う姿で、その顔に少しの愛情をも浮かべないのは、父子の対面とは思われず、敵と敵を一間の中に閉じ込めたかと思われた。

 これでは仕方が無いと気付いたのか、禮堂は漸(ようや)く口を開き、
 禮「今日唯今より、此の家は其方(そなた)の家で、其方は有徳に入れ代わり、小森伯爵と名乗ららなければならない。が併し、後々心違いがあってはならないので、篤(とく)と申し聞かして置く。此の小森家の名義を、軽々しく思ってはならないぞ。わしの方も其方を家に入れては、此の家の恥じを世間へ晒す様な者なので、何時までも有徳を、嫡男(長男)の儘(まま)捨て置く所存であった。

 實「ハイその事は好く存じて居ります。私しも固より、小森家の名義を毀(きずつ)けてはならないと存知、成るべく事穏便に治める積もりでありました。法廷などへ持ち出す気は毛頭もありませんでした。」
と聞いて禮堂は幾分か感心したが、更に一層言葉を真面目にした。

 禮「固(もと)より其方は、今まで民間に育ったので、わしに対する愛情はあるまい。愛情はなくっても善(よい)が、礼儀だけは堅く守らなければならない。先祖からの家風として、子たる者は、父の言葉が終わらぬ中に、口を出してはならない。今も其方はわしの方が談話中に、口出しを致した。

 又父のする事は善悪ともに、黙って従わなければねばならない。善いか又是まで有徳には馬車、乗馬、従僕(めしつかい)なども給与(あてが)い、その費用として月々八百円(四千法(フラン))《現在の約304万円》の小遣いを与えてあった。今其方を有徳より劣る待遇(あつかい)にしては、世間で様々の悪口を言うかも知れないので、矢張り馬車も乗馬(のりうま)も遣る。且つ月々の費用を千二百円(六千法(フラン))《現在の約456万円》に増して遣る。

 好く気を附けて、人に笑われない様に費(つか)うが好い。身の行いは勿論、言葉に至るまで今までと違い、軽々しくしてはならないぞ。シテ其方は撃剣は出来るか。」
 實「可なり出来ます。」
 禮「馬に乗れるか。」
 實「是まで余り乗りませんが、半年も稽古をすれば乗れると存知ます。」

 禮「フム尚(ま)だ言い聞かす事がある。有徳が今迄の居間は汚らわしいので、釘附けにして、其方には別に居間を与える。幸いな事には、家の構えが広いから、今迄有徳の出入りした左の門も閉じて仕舞い、其方は右の門より出入りし、わしは真ん中の門を使う。

 又馬車などは今注文すれば、明後日の朝は出来て来るので、是も好し。全体其方を一、二年旅行させてやろうと思ったが、旅行させても世の悪口は消えないので、直ぐ様此の家へ入れる事に致した。附いては是より直ぐに、家内一同へ引き合わせる。」
と云いながら、早や呼び鈴に手を掛けて、従僕(しもべ)を呼び入れようとするので、實は遽(あわただ)しく押し止(とど)め、

 「仰せは一々有難く肝に命じました。今彼是申し上げては、恐れ多くはありますれば、此の御引き合わせは、暫くお待ち下されませ。此度(こんど)の事件は、此家に取って、容易ならない事なので、波風なく穏便に治めるのが、何よりも大切であります。

 今私しがお言葉に従い、直ぐ様此の家の嫡男となれば、世間の人は好くは申しません。未だ有徳殿の裁判も定まらない中、それを余所に見て此家に入れば、人情の常として、私しを憎みます。小森家を騒がして、その後へ得たり賢しと入り込んだ、などと云われては、後々貴方のお為でもないでしょう。」

 禮「成る程、」
 實「更に私しは暫(しばら)くの間、今まで通りの澤田實で、澤田夫人の許に居れば、その中には世間でも、何時ともなしに此の私しを、小森の長男と思いましょう。更に下女下男に至るまでも、見ず知らずの私しが、急に主人の位に付くと、種々(いろいろ)の誹(そし)りを起こすかと存知ます。

 その上に私しの身と言っても、之まで民間に人となり、貴人の礼儀さえも心得ず、急にお手許へ参っては、如何なる失策を仕出来(か)して、物笑いにならないとも限りません。
 此の儀ばかりは今一度お考えの上、暫(しばら)く御猶予を願います。」

と道理を推した實の言葉に、禮堂も私(ひそか)に感心したか、口の中で、
 「なる程爾(そ)うだ。」
と意外に早く承諾の様子が見えたので、實は之に力を得て、更に言葉を進める様、

 「且つ又、私し一身に取りましても、今迄頼まれた弁護の事件を初め、その外急に手を引き兼ねる用事も残って居ますので、一々に片を附けなければなりません。

 私しが小森伯爵を名乗り、その上で裁判所へ出入りするのは、身分不相応と存知ますので、未だ澤田實を名乗る中に、この様な用事の手を切りまして、」
 禮「フム、成る程、爾(そ)うするが善い。その方は有徳より余程世故に長けて居る。」

 實「イヤ有徳殿の事に就きましても、少々私しに考えがあります。」
と聞いて禮堂は少し怪しみ、
 「汚れた有徳を何と致す。」
と云えば實は、驚いた体で、

 實「貴方は不幸せな有徳を、お見捨てになりますか。それは可哀想であります。有徳とても同じく貴方の子であります。私しの兄弟であります。その上二十年近く小森家の名を帯びた者であります。仮令(たと)え如何なる罪ありとも、之を救うのが父たり、兄弟たる貴方と私しの義務と存知ます。」

 禮「それでは何うする積もりだ。」
 實「私は有徳が、お伝を殺すなどと、その様な卑怯な事はないと存知ます。仮令(たと)え殺したとしても、私しは弁護専門の法学士であります。有徳を弁護致します。裁判所に何れ程の証拠が有うと、私しは一々言い開き、法官の議論を説き破ります。此の弁護さえ仕果(しおお)せば、私しが貴方へ対し、身分相応の土産になると存知ます。」

 禮「若し弁護する前に、有徳が白状すれば何う致す。」
 實「白状すれば取り返しが附きませんので、責めては裁判を経ずに、内密に治めるだけの手続きを致します。」
と誠心見えて説き立てると、傲慢である禮堂も、その情け深く且つ勇ましい覚悟に、心の底から感服し、我知らず涙を流し、

 「好く云った、それでこそ禮堂の嫡男だ。」
と言って實の手を取り、握り〆た。



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