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裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」  小説館版

エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2024.9.30

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       裁判小説 人耶鬼耶     涙香小史訳述

        第二十七章 實を嫡男と認定

 左しもに傲慢な小森禮堂も、世に珍しい澤田實の心の潔白なのに感じ入り、少しの間は握った手を放すことが出来ずに居たが、元来心に定まりない質(たち)なので、又も思い直す所があるのか、良(やや)あってその手を放し、

 禮「其方(そなた)の言う事は至極道理に合って居るので、その通りにするで有ろう。併しながら此の事を手本にして、後々父の言葉に否応を言ってはならない。道理は何うでも、父(おや)は父(おや)、子は子である。子として父に負くと云う道はない。ハイ、ハイと云って従う者だ。』

 實は黙然として聞いて居たが、禮堂は更に言葉を続け、
 禮「先ず其方は有徳の裁判が済み、自分の用事も片付いたら、改めて此家へ入る事としてーー、併し先ア今夜だけは、此家に泊まって好かろう。父と一緒に夕飯を喫(た)べながら、緩々(ゆるゆる)と話しもしよう。又其方の居間にする部屋が気に入るか何うか、一応見定めて呉れ。愈々(いよいよ)気に入ったとなったなら、直ぐ様造作の作り替えや、飾り附けに取り掛からせよう。」

と思っていたよりも柔しい言葉には、隠そうとすれど隠せない、父子の情が洩れているに違いない。實は暫らく考えていたが思い切って、
 實「イヤ仰せでは御座いますが、今日は是からお暇(いとま)を戴かなければなりません。澤田夫人が病気危篤でありますので、之を余所に見るのは實の忍びない所であります。

 仮令(たと)え私の母でなくても、今まで二十余年の間、母と呼び、子と呼ばれ、養育の恩を受けながら、臨終の際に至って、看病をしなければ、余り恩を知らない様で、本心に済みません。」
と臆する色もなく言い述べた。

 抑(そもそ)も澤田實は、初めて夫人が、我が母ではない事を知った時は、非常に之を憎んだけれど、胸に一点の邪心も無い男なので、その憎しみは一時にして消え失せ、又も之を憐れむ心が出てきたのだ。禮堂は此の言葉を聞いて、實の心を察すると共に、過ぎし昔し、澤田夫人と思い思われていた時の事などを、思い出したのか、茫然として夢路に迷う様に、口の中で澤田夫人の名を幾度か唱(とな)えて居たが、凡そ人の心に何時までも侵入(しみいっ)て、忘れない者は初恋の嬉しさである。

 況(ま)して禮堂は、澤田夫人を思う一念で、本妻の子を捨てる迄に慕った身であり、仮令(たと)え一旦、その仲を絶ったと言って、心に忘れる事があろうか。思い廻せば、廻すほど愛らしい澤田夫人の面影が、目の前に浮かんで来て、此の時又も少年の痴情に還(かえ)ったのか、我を忘れて声を出し、

 「澤田嬢よ、私は貴女を恨んだけれど、貴女も今は私の為に病となった。私が若し貴女の言葉に従っていたならば、二人が子を取り替えもせず、貴女にこれほどまでの苦労も、掛けなかった。貴女の病(やまい)は私のせいである。私には情けがある。何時まで貴女を恨みましょうか。」

と言いながら落とす一雫(ひとしずく)は、断腸の涙であるに違いない。實も父の心を察し、唯伏し俯向(うつむ)いて居たけれど、繰り言は果てしが無いので、恐る恐る顔を揚げ、
 「如何が致しましょう。」
と言われて漸(ようや)く我に返り、

 禮「アア俺も一緒に行こう。俺が一言慰めてやれば、末期(まつご)《死に際》の功徳になるだろう。」
との意外な言葉に、實は驚き、

 「父上、それはお止めなさるが、宜(よろ)しいかと存じます。澤田夫人は、今不意に貴方のお顔を見れば、驚きの余り、如何なる事になるか知れません。医学博士、春辺氏の説では、今暫く、心を落ち着けて置くのが、何よりの大事と申します。二、三日も経った中には、少し落ち着く時もありましょうから、その時に成されませ。」

と言われて、禮堂は少しの間、思想(かんが)えて居たが、長い嘆息(ためいき)をつき、
 「それでは其方(そなた)の言葉に従(したが)おう。早く行って看病しなさい。息子(せがれ)」
と云ったが、此の時は、初めて心の底から、息子(せがれ)と云う声が出て来た。實は心得て立とうとすると、禮堂又も押し留め、

 「若し澤田夫人の病気が、少し好さそうなら、今夜直ぐに帰って来い。八時までは夕飯の支度をして待って居るから。」
 實「心得ました。」
と立ち上がった。此の時禮堂は、急に従僕(しもべ)を呼び入れて、

 「コレ伝助(原名デニス)以後此の紳士(澤田實)に、少しでも失礼の廉(かど)がある者は、誰彼の容赦なく、即座に放逐するので、皆の者に好く言い聞かせて注意せよ。此の紳士は此の家の主人同様だぞ。」
と厳かに言い渡したので、實は相当の挨拶を述べて、小森家の外へ出て行った。

 後に禮堂は打ち寛(くつろ)いで、長椅子に倚(よ)り掛かり、昨日より降って湧いた此家の波風を考えながら、
 「フム今のが真の此の家の、後嗣(跡取)りだ。真の禮堂の嫡男だ。先ア彼れを入れて好い事をした。心の勇ましい所と云い、形容(かおかたち)の凛々(りり)しい所と云い、此の俺を生き写しだ。

 俺が若い時は、丁度あの様であった。知恵も勝れ品行も正(よ)し、謙遜の中にも勇気があって、物に騒がず、フム彼(あ)れでは小森伯爵と名乗っても恥ずかしくは無い。大抵の奴なら、貧しく育って急に大家の後嗣(あとつぎ)となれば、その富貴に目を眩(くら)ますが、彼(あれ)は泰然と動かない。剛(えらい)奴だ・・・。

 しかし、何う云う訳か、真底から可愛くは思わない。彼(あれ)よりは、有徳の方が可愛いテ。否々有徳は人殺し、アア可愛想な奴だ。何でも彼奴(きゃつ)は、余り失望して発狂した。発狂の上で殺したのだ・・・。

 實の方は余りに賢(かしこ)過ぎる。イヤ賢いばかりではない。情け深いテ。、澤田夫人を大事にし、有徳をも兄弟と思って可愛がる。今時アレ位い賢くてアレ位い情け深い若者は珍しい。フム両方とも、劣り優りのない好い子じゃ。此の様な好い子を二人迄持ったのは、俺の仕合せだ。

 イヤイヤ父が好いから、矢張(ヤッパ)り好い子が出来たのだ。親が好くなくては、好い子は出来ないと見える。でも有徳は人殺し。して見ると或いは好夫(まおとこ)の胤(たね)・・・・。イヤ爾(そう)でない。鶴亀鶴亀、澤田嬢は・・・。澤田嬢はその様な・・・・・フム一寸逢度(あいたい)な、實と一緒に行けば(善)好かった。」
と取り留めもなく考えて居た。



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