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裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」 小説館版
エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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裁判小説 人耶鬼耶 涙香小史訳述
第二十八章 金貸し苦連次
澤田實は父禮堂の家を出てから、通り合わす馬車に乗り、一散に我が家に着き、その儘(まま)二階に上って行くと、足音を聞いて召使の女中が出て来て、
女中「旦那様、先刻からお客様があって、貴方のお帰りを待って居ます。」
と云いながら、一枚の名刺を指し出した。受け取って見れば山田苦連次とあり、實は一目見て口の中で、
「ウム又金貸し苦連次が催促に来たか。蒼蠅(うるさ)い奴だ。」
と呟(つぶや)きながら女中に向かい、
「ヨシヨシ暫(しばら)く居間へ待たせて置け。」
と云い捨てて澤田夫人の寝室に入って行った。
茲(ここ)には折り好く、医博士春辺氏も来て居て、且つ見知らない看病婦が一人附き添って居るので、實は先ず春辺氏に向かい、
「先生、母の容体(ようだい)は如何(いかが)でありましょうか。」
春「イヤ、医学上から申せば到底難しかろうと存知ます。それに就(つ)いて、実は拙者の一存で、是なる婦人を鬢仙寺(びんせんじ)から迎えて参りました。」(鬢仙寺とは尼寺である。此の寺の尼は慈善の為、看病婦となって、病人の許へ迎えられて来るのだ。)
實は聞いて、今更の様に失望し、
「看病婦人をお迎え下されたのは、何より有難く存知ますが、母の病気は何とか、治療のし方がない者でしょうか。」
春「先ア、治療法は無いものと思って居なければなりません。」
實「それは困りました。尤(もっと)も寿命のない者は、嘆(なげ)いても無益でありますけれど、実は是非とも死ぬ前に、母に知らせたい事もあり、又母の口で愈々(いよいよ)是々だと、一言云って貰わなければならない事もありますが、もう是切りで口を聞く事は出来ないでしょうか。」
春「そうですね、唯今の所では、何を言っても通じませんが、此の病気は愈々(いよいよ)息を引き取る間際に、半時間位は必ず正気に返ります。その時を待って、言う事は言い、聞く事は聞くより外に、致し方がありません。」
實は何の返事もせず静かに立って、澤田夫人の枕辺に寄り、涙に湿(うる)んだ声で、
「阿母(おっか)さん、實であります。阿母さん、風(ふ)とした事から、貴女に御心配を掛けて済みません。嘸(さぞ)此の實を、悪い奴だと思召(おぼしめ)しましょうが、もう此れからは、貴女の御為にならない事は、決して致しませんから、何うぞお許しなさって下さいませ、阿母(おっか)さん、阿母さん。」
と耳に口をよせて、掻き口説(くど)いたが、夫人は少しも正気に戻らない。唯仰向(あおむ)けに伏(ふ)したまま、今にも息を引き取るかと思われる様な、細い息を発するのみ。實はその痩せた顔を悲しそうに臥(ふ)したまま、今にも引き取るかと思う様な、細息を発するのみ。
實はその痩(や)せた顔を、悲しそうに見守って、枕辺を離れる事が出来ずに居たが、医博士春辺氏は後ろから声を掛け、
「イヤ澤田君、今は何と仰言(おっしゃっ)ても通じません。その儘(まま)静かに置き給え。未だ明日までは大丈夫ですから、拙者は一先ず帰って、今夜十時前に又参ります。
後の事は看病婦人に、好く申し含めてありますから、御心配には及びません。それでは失敬致します。」
と暇(いとま)を告げて帰り去った。之と引違えて、最前の女中が来て、
「旦那様お顔を。」
と呼ぶので、實は何事だと之に従って、廊下に出ると、女中は声を潜め、
女中「旦那様、今朝から薬舗(くすりや)へも借りになって居ます。唯今も又春辺様が、お薬の処方箋を置いて行きましたので、之から薬舗へ参りますが、お銭(あし)の都合は附きませんんか。」
と言われて、實は衣嚢(かくし)《ポケット》を探り、昨夜散倉から貸し与えられた、千円(現在の380万円)を取り出し、その中から五十円(現在の19万円)の切手一枚を取って、
「お銭(あし)は出来たから幾等でも遣る。先ず是だけ渡して置こう。」
と言って差し出せば、女中は實が身に、珍しい大金を見て、怪しそうにその顔を眺めながら出て行った。此の時、金貸し苦連次は、實の声を聞き附けて、抜き足に廊下へ出て来て、後ろから大金を見て、腹の中に何やら頷首(うなづ)く様子だったが、その顔色を押し隠して急に声を掛け、
「イヤ澤田様、先程からお帰りを待って居ました。今日は是非に先日の分を・・・・」
と容赦もなく述べ立てようとするので、實は周章(あわて)て押し止め、
「病人があるから先ア静かに・・・」
と云い乍ら一緒に居間に入り、入り口の戸を堅く閉じた。
苦連次は座に着くや否や、實に向かい、
「前々の水曜日から延び延びの三百円(現在の114万円)、今日は是非とも戴かねばなりません。」
實「イヤ、彼(あ)れは払う訳には行かないから、証文を書き替えて呉れと、一昨日(おととい)利子を添えて、手紙を出して置いたが。」
苦「その手紙は見ましたが、未だ承知したと云う御返事は致して居ません。」
實「返事は無くとも、爾(そう)して貰わなければならない。お前の方では、利子さえ取れば言い分は無いだろう。」
苦「爾(そ)うは行きません。もう是で書き替えが四度目です。幾等利子を戴いても、三度以上書替ると云う事はありません。此の後、改めてお貸し申すまでも、今日は一旦お返しを願います。ある時にお返しなさらなければ、何度書替えても、果てしが附きません。」
實は腹の中で、
「彼奴(きゃつ)め、今俺れの金を後ろから見て、それで此の様な事を云うのだナ。悪(にく)い奴だ。」
と思ったが、荒立てては好くないと、故(わざ)と言葉を柔(やわら)げて、
「イヤ、なる程、ある事はあるが、是は止むを得ない入用が有って、外から借りたので、今払う事は出来ない。」
苦「サ、私(わたく)しを差し置いて、外からお借りなさる様では、猶更(なおさら)書き替えは出来ません。どうしてもと仰しゃるなら、裁判所へ持ち出しても、お受け取らなければ成りません。」
實は法律の学士である。裁判所の事は、「いろは」よりも好く知って居るので、忽(たちま)ち思い附く事があって、
「好し好し苦連次さん、裁判所へ持ち出す位なら、寧(いっ)そ、一月半待って貰おう。好く聞きなさい。裁判所から呼び出しが来るには、八日掛るよ。その上、貸し借りの事件は、二十五日間の猶予を許して呉れる規則、足して見れば八日と二十五日、都合三十三日だけ手間が取れる。
それよりは、和(おと)なしく、一月半待ってお呉れ。爾(そう)すれば五百円(190万円)にして返します。サ、裁判所へ持ち出して、三十四日目に三百円受け取るよりは、もう十一日辛抱して、四十五日目に五百円受け取る方が徳だろう、何うだ。」
苦連次は、意外な言葉に少し考えたが、急に声を低くし、
「貴方は四十五日目に五百円と云う大金を、何うして拵(こしら)えます。それさえ確かなら、待ちも仕ましょうが。」
實「イヤ何うして拵(こしら)えるか、其(そん)な事は問わなくて好い。確かに当てがあるから。」
と云う言葉附きが、偽りとも思われないので、苦連次は潑(はた)と手を打ち、
「宜しい、夫れでは五百円として証文を一月半の期限に書替えましょう。旦那分かりました。貴方は近々大家のお嬢さんと、婚礼なさるのですね。そのお嬢さんの所持金なら、確かです。」
實は驚き、
「何を詰まらない事を云うのだ。」
苦「隠しても了(いけ)ません。今朝お理栄嬢に逢ったら、貴方の素振りがが違ったから、必ず外(ほか)の女と婚礼するに違いないと言いました。ナニそりゃ大丈夫。決して私からお嬢様に多舌(しゃべり)は仕ません。旦那貴方は余程お仕合せ者ですぜ。」
と飛でも附かない推量に、實は笑(おか)しさの中にも心を痛め、扨(さ)てはお理栄嬢、私が昨夜情(つ)れなく言った事に恨んで、て外に女が出來た者と察し、苦連次にまでその様な事を告げたのか。そうと知っていたなら、用事の次第を打ち明けて、得心させて置くものを。
大事を取って話さなかった為、無益にその心を痛めさせる事になった愛しさよと、返らぬ事に心を苦しめるのも、相思う情なのだろう。しかしながら、この様な事を苦連次に告げても、仕方がないので、真面目になって、
「ナニ其の様な事ではないけれど、五百円は確かだから、今云う通り取り決めよう。」
苦「それでは此の次の月曜日には、証文を書替えて参ります。」
と漸(ようや)く帰って行ったが、實は発(ほっ)と息を突き、静かに時計を眺めて、
「アアもう七時だ、父が夕飯の支度を仕て待って居ると云ったが、是から又行かなければならないか。イヤイヤ彼(あ)の通り、病気危篤な夫人の傍を、離れては済まない。父の所へは断り状を出そう。アアその序(つい)でに、澤田夫人の弟も、呼びに遣ろう、爾(そう)だ。」
と言って、直ちに紙筆を取り出し、一通は父に宛て、一通は夫人の兄へ宛て、匇々(すらすら)と二通の手紙を認めた。此の時又も入って来る一人の人があった。個は既に読者の知る人である。果たして誰だろうか。試みに推察したまえ。
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