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裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」  小説館版

エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

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       裁判小説 人耶鬼耶     涙香小史訳述

        第三十一 呉竹姫の嘆願 

 判事田風呂氏は、烟六(けぶろく)の電報を見て非常に喜び、此の証人があれば、最早や有徳の罪を定めるのに、充分であるとして、翌九日は朝夙(はや)く裁判所に出勤し、一意(ひたすら)烟六の帰りを待って居た。頓(やが)て八時と覚しき頃、一人の小使いが田風呂氏の傍に来て、

 小使い「貴方に御面会を願いたいと言って、年若い婦人が控所に待って居ます。」
と知らせた。
 田風呂氏の背後から、非常に妙なる声音(こわね)で、
 女「田風呂氏よ、只今面会を願っているのは、貴方の友である私です。」
と云う者があった。

 田風呂氏は驚いて、振り向いて見ると、これは何と思いも寄らない呉竹姫である。以前、我が身が、恋に焦がれて発狂した、呉竹姫である。判事は我知らず、
 田「オオ、呉竹姫か。」
と声を出したが、忽(たちま)ちに思い返せば、我身は姫に捨てられた身である。取り分け今は、判事と云う非常に重い席に就いている身で、どうして軽々しい言葉を、云い出す事が出来るだろうかと思うと、飛び退(の)く様に身を引いた。

 此の時田風呂氏の顔色は、草の葉よりも青く、その身体は芦の葉が、風に戦(そよ)ぐ様に震えていた。そもそも呉竹姫は、深窓に人となり、他人に顔を合わすのさえ、恥じらう程なのに、今日はなぜ唯一人、裁判所に入って来たのだろう。深い理由が無くてはならない。取り分け普段の憂い顔には似もせず、顔色澄々(さえざえ)と晴れ渡って、堅く締まった口許に、充分な決心を現しているのは、殆んど生まれ返ったかとしか、思われないほどで、容顔(かおかたち)は美しく艶(たおや)かであって、何にも譬(たと)えようがない。

 月ならば、月羞じらって雲に入り、花ならば、花妬(ねた)んで葉にも隠れる。
 田風呂氏は早やくも、姫が、有徳を救い出そうとして、来たことを知っているので、此の美しい顔を眺めては、我が心が、鈍りやしないだろうかと、震えながら伏し俯向(うつむ)いて居た。

 姫は静かに判事の傍に進み寄り、右の手の手袋を抜き取って、
 呉「田風呂氏よ、貴方は私の為には、永く無二の友であり続けると、誓ったのではなかったか。」
と言いつつ、その手を差し延べた。

 田風呂氏は今、此の柔らかな手を握っては、自分は忽(たちま)ち飴の様に、融(と)け去ってしまうと恐れたか、テーブルに置いた手を後ろに引き、
 田「その通りです。私は貴女の為には、何方(いつ)までも力を尽くそうと願っています。」
と恐る恐る述べると、姫は、
 「御免ください。」
と言って、傍(かたわら)の椅子に腰掛け、

 「田風呂氏よ、私が、乙女子の恥かしさをも打忘れ、今ここに来た事の、その訳を知っていますか。」
と問われて、判事は言葉さえ、出す事が出来なかった。只首を垂れて頷(うなず)くばかり。真に呉竹姫は、有徳を思う一心で、ここに来たのである。法律も知らず。証拠も知らず。唯処女気の一念で、慕う男を救い出そうと望んでいるのだ。

 若しも是から、泣きつ口説(くどき)つして、聞き訳もなく判事の膝に取りすがったならば、判事は如何したら好いのだろう。
 猶(な)をも情(つ)れなく突き放し、情けを以ては法律は曲げられないと、言い懲(こ)らして、帰すべきか。

 貴婦人淑女に対して、礼儀に背く事を為す事は、文明国人の作法に非(あら)ず。紳士の恥じとする所である。田風呂氏はこの様に思い廻らしたので、情けと法律の間に、一身を挟まれて、右に従えば左に背く、左に従えば右に背くことになる。如何にしたら好いだろうと、胸の中は、血の波が高く騒ぎ立って来た。

 呉竹姫は判事の心に、この様な苦しみがあるとも知らないので、
 「田風呂氏よ、私は昨日初めて、有徳が捕らわれた事を聞き知りました。母を初め、従僕(めしつかい)の者まで、私に此の事を聞かせたならば、憂いの余り、病に成ってしまうのでは無いかと、堅く隠して居ましたが、私は乳母から聞き知りました。

 知った時の私の悲しみは、言葉にも尽くされず、今朝に至って、初めて貴方の係りである事を聞いたので、非常に安心し、この様に此の所に来たのです。田風呂氏よ、貴方は私の悲しみを察し、有徳を助け様として、この様に特別に、此の事を引き受けたのではないですか。貴方の心には、私は感謝する言葉もありません。」

 田風呂氏は聞くに従い、益々胸のみ騒いだけれど、心弱くてはならない場合と、思い定め、田榮(ひめ)よ、私は唯、法律に由って、有徳の事件を引き受けただけです。貴女の賞辞(ほめことば)に与(あずか)る様な事情はありません。」

 呉「何ですと、私は法律の事は何も知りません。唯だ貴方が有徳の身を預かった事を、有難いと思うからなのです。有徳が若し、外の判事の手にあったなら、私はどうして裁判所に来る気が起きるでしょう。名を聞くのさえも恐ろしい、法廷とやらに、只一人この様に来たのは、全く貴方を頼むからなのです。

 外々の判事ならば、仮令(たと)え私が何事を述べても、それを露ほども採用(とりもち)はしないでしょう。唯貴方は私の言葉を疑わないでしょう。私が云う事を、拒絶はしないでしょう。

 田風呂氏よ、有徳を助け下さい。有徳は国の掟を破る様な、汚らわしい男では有りません。有徳を捕らえた事は、全く事の間違いからです。」
 田風呂氏はここに至り、何と言い説けば好いだろうと、心さえ定まらなかったので、唯溜息を發(つ)くばかりだった。

 姫は更に言葉を続け、
 「田風呂氏よ、貴方は私の友ではないのですか。私の願いを無常にも、捨てはしないでしょう。有徳が如何なる疑いを受けて居るのか、私は好くは知りませんが、有徳に罪は有りません。疑う者は、有徳の清き心を、知らないのです。貴方は速やかに有徳を解き、許してやって下さい。」
と何事も無いように述べたが、是から田風呂氏は、如何なる事を言い出すのだろうか、次号待って説き分けよう。



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