hitokaonika32
裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」 小説館版
エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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裁判小説 人耶鬼耶 涙香小史訳述
第三十二 田風呂判事の説諭
呉竹姫は世間も知らず法律も知らず、唯だ情夫を慕う一念で心の誠を打ち開き、毒もなく罪もなく、思う儘(まま)を打ち明けるその清く憐れな言葉は、田風呂氏の霊魂(たましい)にまで浸み入った。
立て板に水を流す様な弁護人の雄弁は、日々聞き慣れていて、空吹く風ほどにも思っていない身であるが、淑女の甲弱(かよわ)い真心には、腸(はらわた)を断たれる思いがする。田風呂氏は少しの間言葉もなく考えて居たが、是ではいけないと思い、顔を挙げ更に言葉の調子を替えて、
田「呉竹姫よ、若し有徳が真実の犯人ならば、貴女はどうしますか。私が若し貴女に向かって、有徳は全く此の罪を犯したのだと云ったならば、貴女は何と思いますか。」
姫は驚いた様子で、田風呂氏の顔を眺め、
呉「貴方は私の友では無いのですか。私が是ほどまでに、罪は無いと云っているのに、貴方はどうしてそれを、虚偽(うそいつわ)りと思うのですか。貴方は露ほども、私の言葉を疑いはしなかったのに。」
田風呂氏は悲しい声で、
「残念です。私は有徳の罪を認めなければなりません。彼の罪は誰れが見ても、最早や疑うべき所はありません。」
呉竹姫は此の言葉を聞き、殆んど呆気に取られた様に、唯田風呂氏を眺めるだけだった。
「姫は判事の言葉を、戯(たわむ)れと思いますか。冗談だと思いますか。」
田風呂氏は思い切って、
田「姫よ、私としても貴女にこの様な悲しい事を、打ち明けたくは思わないが、今は早や隠すにも隠せません。心を静めて好く聞いて下さい。有徳は人を殺した罪人(とがにん)です。既に充分な証拠があって、言い開く道のない身です。」
と宛(あたか)も老練な医師が、劇薬を用いる様に、一滴一滴用心して言い聞かせた。
姫はきっと事の恐ろしさに堪え兼ねて、気絶をもし兼ねないと思ったが、そうでは無くて、瑠璃《青》色の目眦(まなじり)《目じり》を、屹(き)ッと見開き、
呉「田風呂氏よ、貴方はまだ私の言葉を疑いますか。貴方は誰にか欺かれて居ます。有徳が如何してその様な卑怯な振る舞いをするのです。
有徳が、仮令(たと)え自ら殺したと白状しても、私はその言葉を信(まこと)とは、思うことが出来ません。私は自分の声の続く限りは、世の正しい人々に訴え、有徳を救い出します。田風呂氏よ、有徳は既に白状したのですか。」
田「イヤ、まだ白状はしていないが、既に証拠が揃った上は、強いて白状させるには及びません。」
呉「田風呂氏よ、貴方は有徳を知らないので、その証拠に欺かれているのです。貴方の裁判は誤りです。仮令(たとえ)世の人が、悉(ことごと)く有徳を罪としても、私は有徳を救い出します。
知らないのですか、有徳の心の潔白は、有徳が自ら知るよりも、私がもっと好く知っていることを。有徳の心は私の心です。私は我が身を疑うとも、有徳を疑いません。田風呂氏よ、貴方は何故に他人の証拠を捨てないのですか。私の言葉を証拠としないのですか。
私の言葉は神に誓った言葉です。神の言葉です。貴方は神を疑うのですか。神に誓った言葉の外に、証拠とすべきものは、何所にあるのです。」
と言いながら、一息ついたので、田風呂氏は、何とか言い慰めて、帰そうと、顔を上げたが、呉竹姫は押し留めて、更に言葉を継ぎ、
「田風呂氏よ、私は甲弱(かよわ)い少女です。独り男子の前に出るのは、乙女の嗜(たしな)みを破っています。しかしながら私は有徳を救うため、それを破ることも厭(いと)いはしません。
田風呂氏よ、私が有徳を思い初(そ)め、思われ染め、誠を明かして誓ったのは、三年(みととせ)以来です。私は心は有徳です。
隔てもなく隠しもしません。貴方は知らないのですか。有徳を知る者は、私の外に有りません。有徳の清き、潔(いさぎ)よき寛(ゆるや)かな心の程は、昔し聞く聖人にも劣りはしません。この様に清き心を以て、何故に罪を犯しますか。
田風呂氏よ、有徳は何故に罪を犯したのです。」
サ何故に、何故にと一筋に問い詰めるのを、田風呂氏は言葉を柔(和)わらげ、
田「姫よ、小森有徳は誠の有徳ではないのです。彼れは既に、家を捨てて名誉を捨て、民間に下らなければならない身となったのです。彼は零落の人なのです。その零落を逃れるための、証拠と成るべき女を殺したのです。」
と聞いて、姫は一際声を励まし、
呉「それは有徳を知らない者の云う事です。有徳は既にその事を、私に告げました。私は有徳を愛しています。皇族だから愛しているのではありません。私は栄耀栄華を以て飾った有徳に、あることを勧めました。有徳も栄華を愛してはいません。私を愛しているのです。
私の愛をさえ失なわなければ、皇族の名は惜しくはないのです。民間に下ることを厭(いと)わないのです。速やかに小森の家を立ち去り、誠の嫡男と入れ代わろうと言って、堅く私に約束したのです。この様な約束をしながら、どうして卑怯な罪を犯しましょうか。
田風呂氏よ、有徳は栄華を得ようとして、罪を犯す様な者では有りません。清く潔よい男なのです。早く解き放(ゆる)して、私の手に返してください。」
と述べ来る言葉の節々に、淑女の真心を現わしたけれど、田風呂氏は如何しても無事に説諭して帰さなければならないと思うので、
「姫よ、私は貴女の詞(ことば)を疑うわけでは有りませんが、有徳は失望の為、日頃の清き所を攪乱(かきみだ)したのです。心を乱したのです。心乱れて、此の罪を犯したのです。姫よ、有徳の身は、罪の為に汚れたのです。有徳は貴女の清き愛情を、汚したのです。
そのことを知らずにまだ有徳を愛するのは、貴女自ら貴女の身を汚すことになります。有徳は貴女の愛に酬(むく)いる人では有りません。私は貴女の無二の友となり、兄妹(あにいもうと)の情を以て貴女に告げます。汚れた男を思い切り、身を清くすることは、淑女の務めです。
如何ほどの悲しみといえども、時が経てば、忘れられない事は有りません。姫よ一時の悲しみを押し鎮(しず)め、行く末永く身を清くし、荒川家の家名まで人殺しの罪に汚さないで下さい。貴女の務めはここですよ。」
と道理(ことわり)を以て説き聞かせた。
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