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裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」  小説館版

エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2024.10.15

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       裁判小説 人耶鬼耶     涙香小史訳述

        第四十章 有徳は有徳、實は實だ

 田風呂判事は、ここぞ大事な所と思うと、充分心を落ち着けて、
 判「その本末を詳しく申し立てよ。」
 判「二人の子を取り替えた振りに見せかけ、その実、取り替えずに置いて、両方から褒美を貰うとは、実に驚き入ったふてぶてしい考えでありますから、私しは、非常に腹を立てましたけれど、可愛い女房に勝つ事は出来ません。お伝は旨(うま)く私を説き附けて、到頭承知させました。

 しかしながら私は、本当に取り替えるのではないかと、心配で成らなかったので、私しは少しもお伝の傍を離れずに、見張って居りました。その時、お伝は私しに向かい、お前ほど悋気(りんき)《嫉妬》深い男は居ないと申しましたので、私しは、アア爾(そう)とも、其方(そなた)を愛するので、自然と悋気《嫉妬》の心も出て来るのだ。俺は其方の傍を一刻も離れる事が出来ないと、この様に申しました。

 頓(やが)てその翌日になると、お伝は悉皆(すっかり)旅の支度を調え、伊太利(イタリヤ)の国境まで出発しましたので、私しも一緒に附いて行き、その夜の七時頃、或る宿屋へ着きました。爾(そう)すると、此の宿屋には、既に小森侯と従僕(しもべ)の次郎が泊まって居まして、更に外には独りの乳母が、生まれ立ての児を抱いて居りました。

 その児の顔と、お伝が抱いて居る児とを見比べますと、非常に好く似て居ますのみかは、衣類までも同じ事でしたので、私しは大いに心配し、こう似て居るからは、一度取り替えれば、後では誰に見せても、分かる事ではないと思いました。

 分かった所で、その証拠は立証出来ないだろうと思いました。依って私しは、是から益々気を附け、益々悋気(りんき)《嫉妬》の風をして、手水場(ちょうずば)に行くのさえも、お伝に附いて参りましたが、居合わす人々は、孰(いず)れも私しを見て、此の様な悋気《嫉妬》深い男はないと申しました。

 併(しか)し彼等の方でも、前以て余程旨(うま)く計画した事と見えて、その夜、非常な酒宴(さかもり)を始め、先方の乳母を散々に酔わせまして、且つ私しにも酒を宥(すす)めました。私しは、普段は非常に酒好きで、船に居る時は、毎日五升位は吞みますから、酒に心を乱す事は決してありません。

 既に唯今も、此の裁判所へ参る道で、若し判事様の前へ出て、心が臆しては成らないと思い、四升(7.2リットル)ほど遣って参りましたけれど、此の通り少しも様子は変わりません。

 私は是ほどの酒吞みでありますけれど、その夜は、一升(1.8リットル)ばかり吞んで、アア酔った酔ったと、前後も分からない風を致して居りました。
 それから夜の十時になると、先方の乳母は、長椅子に靠(もた)れて眠りました。

 此の時、次郎は侯爵に目配せして、その酔い倒れた乳母を、次の間に寝かせました。スルと侯爵も安心して、別の部屋へ退きました。是から何(ど)うすると思って居ますと、次郎の野郎め、お伝をば同じく、次の間へ連れて行き、前の乳母と並べて寝かし、次ぎには、私しを連れて、もう一の別の間へ寝かそうと致しました。

 私はここだと思い、大いに立腹の体に見せ掛け、俺は女房と一所でなくては、一晩も寝る事は出来ないと言って、無理にお伝の傍へ行き、お伝の後ろへ横になりました。是から高鼾息(たかいびき)で寝入ったと見せ掛け、油断なく気を附けて居ますと、お伝は太い《ふてぶてしい》奴です。

 私しの寝息を伺(うかが)って、て徐々(うろうろ)と寝台《ベッド》を離れかけました。私しも是を見逃しては大変だと思い、跳ね起きて、後ろからお伝の首筋を捕らえ、横様に捻倒(ねじりたお)して小児を奪い取りました。

 若し此の儘(まま)に許して置いては、仮令(たと)え、今夜取り替えなくても、後々早晩(いつか)は、取り替えるに違い無いと思ったので、生涯取り替える事の出来ない様に、充分な目印を、附けて置かなければ成らないと思案し、私しは、前々から衣嚢(いのう)《かくし》《ポケット》に入れてある、西斑(スペイン)製の大洋刀(おおナイフ)を取り出し、児子(あかんぼ)の左の腕を、一寸《3cm》ほど縦に切り裂き、

「サア取り替えるなら取り替えろ、此の傷は生涯直らないので、何時でも傷を証拠に裁判所へ訴える。」
と、大声を出して叫びましたが、お伝は驚き、小児は泣き出し、辺り一面の血と成りました。

 先方の乳母は、余程の寝坊助と思いましたが、此の騒ぎには目を覚まし、様子を知らないので、狼狽(うろたえ)て、強盗強盗と叫びます。イヤもう大変な有様でありましたが、此所へ次郎めが、次の間から飛んで参りました。私しは手に大洋刀(大ナイフ)を持ち、寄らば切るぞと身構えて居ましたので、何(ど)うする事も出来ません。

 是にて次郎は言葉を柔(やわら)げ、私しに詫び入り、何(どう)ぞ後々まで、此の事を秘密にして呉れと申すので、私しは小児を取り替えさいしなければ、許して遣ると申しました。是に次郎も閉口し、取り替えはしないから、取り替えた風に仕て置いて呉れと申します。

 私しは、イヤ唯言葉だけでは信じられないから、今夜の始末書を書き認(したた)め、之に次郎とお伝が、自分自分で自分の名を記し、それに先方の乳母が実地保証人として、その名を書き入れれば、それで許して遣ると申しました。

 次郎は此の言葉に従い、終に始末書を作り、私しの云う通り、三人銘々に名を記し、船乗り利郎次殿と記して、私しに渡しました。此れで翌朝、小森侯爵にはその事を隠し、全く取り替えたと次郎が吹聴致しました。それで取り替えた体に致しましたけれども、その実、決して取り替えは致しません。

 是にて私しは、お伝を連れ、お伝は澤田夫人の児を抱いて帰りましたが、私しは、此の様な女を女房に持っては、後々が恐ろしいと思い、直ぐ様離縁の相談をしましたけれど、裁判所にて離縁は出来ないと云われましたので、戸籍上は夫婦でも、全く関係のない事にして分かれました。

 その後二十余年を経て、息子の茶助が妻を娶る事になりましたので、お伝の印形(いんぎょう)を貰わなければならない事になり、此の前の日曜日に、二十七年目に、お伝の所へ行きましたところ、それを探偵烟六様に聞き出され、到頭此の裁判所へ、此の通り呼び出される事と成りました。」
と事を詳細に述べたので、判事は暫(しば)し、言葉も無い迄に驚いた。

 頓(やが)て又利郎次に向かい、
 判「シテその時の始末書は・・・・」
 利「ヘイ、是で御座います。」
と言って差し出す一通は、非常に古びて皺に成って居たけれど、擬(まが)う方なき小森家の名義を、版に押した罫紙にして、その文言は今述べた事を手短く書き記し、終わりに次郎、お伝、先方の乳母の自筆にて、各々その名を認(したた)めて、利郎次に宛てた者なので、最早や疑う理由もない。

 小森有徳は真の小森家の嫡男である。澤田實は真の澤田夫人の子と分かった。判事は右の始末書を預かって置いて、利郎次を一先ず退庁させ、その後に唯独り考えて見ると、兎に角小森禮堂を呼び出し、此の取り替えの、偽りであることを知らせなければならない。

 又澤田實にも、此の事を知らせなければならない。一旦我が紹介(ひきあわせ)で、父子(親子)の対面をさせた者を、又も我が言葉で引き裂くことは、何より辛い事で、取り分け澤田實の失望は、如何ばかりであるだろうと思い遣り、暫(しばら)く嘆息(ため息)の外はなかったが、このままでで済むべき事では無いので、思い切って、小森禮堂に呼び出しの使いを発した。

 此の使いが、小森家に着いたのは、丁度禮堂が呉竹姫と共に、澤田夫人の死を見届けて帰った時だった。アア有徳は真の有徳であり、實は真の實である。お伝は誰に殺されたのだろうか。判事は益々疑いの雲に閉じ込められ、考えあぐねて居る様に見えた。

 是から探偵散倉の眼で意外な所から、真の犯人を見出して来た。澤田實が、将来に望みある身を持ちながら、勢いに迫まられて、自殺をなす等、非常に悲惨な物語は、涙香筆を取るのさえ、躊躇せざる得ない心持を引き締めて、早々に終局を結ぼうと思う。



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