hitokaonika41
裁判小説「人耶鬼耶(ひとかおにか)」 小説館版
エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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裁判小説 人耶鬼耶 涙香小史訳述
第四十一章 混乱する散倉
話しは散倉の事に帰る。
〇散倉は田風呂氏に別れてから、飛ぶ様に尊長村に行き、パリから此の村に至るまでの、各停車場に入り込んで、汽車の切符を売る人は申すに及ばず、一切の鉄道役員に向かい、若し四日の夜八時過ぎの汽車で、年若く当時流行の衣服(みなり)をして、蝙蝠傘を手に持った男を見掛けはしなかったかと、一人一人に問い糺(ただ)したが、孰(いず)れも之を知らないと答えた。
ここに於いて、散倉が思うには、此度の犯人は、充分に深く計画した者なので、必ずその痕跡を眩(くら)ます為め、最(もう)一ツ先きの停車場に降り、そこから引き返えして、尊長村に入り込んだのではないかと、考え附いたので、
尊長村から一里ほど先にある、茶塘(ちゃとう)と云う停車場に行き、前の様に尋ねた所、果たせるかな、一人の小使いが八時三十分の汽車で、立派な衣服(みなり)の、若い男が忙がしそうに降りて、直ちに後の方へ引き返すのを、見届けたと云ったので、更に好く様子を聞くと、蝙蝠傘をも携えて居てたと云う。
その言葉は、我が思う所に好く似て居るので、是ぞ件(くだん)の犯人であると、その所から後戻りに、尊長村までの道を、隈(くま)なく調査したところ、同夜、その道を通った人の中に、巻煙草を口に、大跨(おおまた)に尊長村を指し行く者を見認めたと云う者があった。
又瀬音川の支流に架けた、橋の番人に問うたところ、同夜の九時前と思う頃、一人の旅人が余程急ぎの体にて、橋賃を払う事を忘れ、その儘(まま)行き過ぎようとするのを、後ろから呼び止めたところ、その人は二十銭銀貨(現在の約760円)を投げ出し、釣銭をも取らずに行き過ぎた。
その容貌(かおかたち)などは、覚えて居ないけれど、確かに黒い高帽を戴(いただい)ていたと述べた。是で考えて見ると、此の人こそ、正(まさ)しくパリから茶塘の停車場まで来て、引き返して尊長村に入り込んだ者に違いない。
(例令(たと)えば東京から品川へ行こうとするのに、わざわざ大森まで汽車に乗り、それから降りて徒歩(とほ)で品川へ引き返すのと同じで、自分の痕跡を眩(くら)まそうとする者でなければ、故々(わざわざ)この様な、迂遠(まわりとお)い道を取る者は居ない。
散倉は先ず之に見込を定め、次には此の人は帰り途には、孰(いず)れの方角に向かったのだろうか。それを探ろうと思案を定め、更に考えて見ると、茶塘から尊長村に行き、その村で、お伝を殺し又も引き返すには、如何にしても、一時間の余は時を費やすべき勘定であるが、
又も各停車場に、十時から十二時までの間に、この様な人が汽車に乗るのを、認め無かったかと問うと、今度は尊長村から二つ手前にある、柳榮の停車場で、同夜十時の汽車が、将(まさ)に出ようとする所へ、若い男が息迫(いきせき)切て、走って来て、切符を買う遑(いとま)もなく、直ちに中等室へ乗り込んだと知らせた。
依ってその中等室の番号を聞くと、何でも一番手近の車両に乗り込んだので、きっと九番の車輌に違いないと云う。是より更に聞き糺(ただ)すと、パリの小間物屋で、楳木場区役所の御用を勤め、毎日の様に棒木場へ出張し、夜は十時の汽車でパリへ帰る人がある。
此の人は常に、九番の汽車に乗り込むとの事が分かった。散倉は此の人に逢って聞きさえすれば、四日の夜、乗り込んだ人の人相は、必ず分かるに違いないと、早速に区役所へ行き、その名前を聞き出した。
是から又もパリに引き返し、その商人に逢った所、成る程、四日の夜、我が乗れる汽車が将(まさ)に出ようとする時、遽(あわただ)しく走り込んだ人がある。酒の匂いが甚(はなは)だしかったため、この様な人と口を聞いては、若し過(あやま)ちを引き出すかも知れないと思い、一言の話もしなかったが、その身形(みなり)は上等な貴族に違いない。
年は二十七、八歳と覚しく、酒の為に顔色は赤いけれど、眼は澄(さ)えて、自ずから威光があり、絶えず虎箱の煙草を噬(くゆ)らし、何気ない体に構えて居たけれど、何となく心に心配を隠す様に見受けられた。又鼻の下には、黒い八字の髯を、蓄えて居たと言った。
更に細々聞き糺(ただ)すと、その帽子から蝙蝠傘、靴などに至るまで、散倉が先にお伝の家を検査した時、雛形を作ったものに、少しも違わない。この様に聞いて、散倉は此れこそ、お伝を殺した本人に相違ないと思ったが、その容貌(かおかたち)を考えて見れば、小森有徳に寸分も違いないのは如何(どう)云う訳だ。仏国(フランス)人の口髯が、孰(いず)れも赤く黄色であるのに、独り有徳の髯のみは、目に立つほど黒い。
今聞く犯人が、黒い八字の髯を蓄えて居たことは、益々有徳に相い似ている。それにしても、有徳には既に無罪の証拠がある。四日の夜、呉竹姫の家に居た事は疑いない。
何でこの様に擬(まぎ)らはしいのだろうと、独り思い乱れて居たが、此の時、風(ふ)と探偵烟六(けぶろく)の事を思い出したので、彼れが捕らえて帰った証拠人とは、如何なる者だろう、之れに逢って、様子を聞いたなら、自ずから疑いが、晴れる事もあるかも知れないと、その足で又も裁判所へと引き返したが、門前で烟六が出て来るのに出逢った。
烟六と散倉は、日頃から互いに、自分の技量に誇り、互いに軽蔑して、少しも親しくは無いが、散倉は自分の此度の誤(あやま)りに恥じ、烟六をば鬼の様に敬いながら、身を謙遜(へりくだ)って問い掛けた。
烟六は何時に無い散倉の言葉の丁寧なのに喜び、前回に利郎次が、判事の前で述べた事の主意を、手短に掻い摘み、非常な誇り顔で話した。散倉は、是で、田風呂判事よりも一層驚き、挨拶さえも打ち忘れて、その儘(まま)烟六に別れたが、余りの事に、度を失い、是から何所(どこ)を探偵しようかと、思案さえも直ぐには出て来ない。当て度も無く足に任せて歩みながら、口の中で独り言、
「ハテな、取り替えたと思ったのは偽りで、實は矢張り澤田實だ。是ではきっと失望するであろう。イヤ何(な)に、失望するには及ばない。俺が養子に貰い受けて、残らず身代(財産)を譲って遣る。俺の姓氏(苗字)は、餘り好くもないけれど、身代(財産)は充分あるから、後々實が出世の道を開くには充分だ。
イヤそれにしても、誰がお伝を殺したのか、矢張り小森有徳かナ、有徳は真の嫡男でも、自分で取り替えられた者と思い込めば、随分殺し兼ねないテ。イヤ有徳ではない、彼れが無罪の証拠は、既に立ったテ。澤田夫人・・・・、イヤ夫人ではない。
ハテ禮堂も未だ此の事は知らない。
矢張り全く取り替えたと思って居る、禮堂が人を雇って殺さ・・・・せ・・・・でもない。澤田夫人は此の事は知らないナ。イヤ爾(そう)ではない。夫人は取り替えられてはならないと言って、人知れず見覚えを附けて置いたと云う事だ。シテ見れば、夫人は実際、實を我が児と知って居るナ。
知って居る時に、實が一件の手紙を見出し、阿母(おっか)さん、私しは貴女の子ではありませんと、斯(こ)う云った。云われると夫人は何と返事をした。爾(そう)ではない、イエイエその手紙は嘘だ、取り替えはしない。
お前は本当の子だ、それを疑えば、お伝に聞いて御覧なと、斯(こ)う云うのが当然だ。スルと實が、お伝の所へ聞きに行く。全く母の言葉の通りで取り替えはしないと返事する。其所(そこ)で實は失・・・・・望・・・・す・・・・る・・・・という考えに至った。
散倉は忽(たちま)ち顔色を変え、立止まった。この様に考えに考えると、終にはお伝を殺したのは澤田實であると言わなければならない事となってしまう。散倉は驚いて、
「イヤ間違った、間違った。成る程、烟六(けぶろく)の言う通り、俺は餘り考え過ぎて、飛んでもない人を疑ぐる事になった。我が養子の實を疑ってなるものか。
鶴亀鶴亀、それに烟六の捕らえた利郎次の言葉も、迂闊(うかつ)には当てにならない。未だ有徳と實との腕を改め、何方(どちら)に傷があるか、見極めなければならない。若し有徳の腕にあるかもしれないテ、初めに有徳を疑って遣り損じ、又も實を疑って遣り損なっては、散倉の名誉は消えて仕舞う。爾(そう)だ。今まで、世に珍しく親切で情深くて、大人しい、アの實を、一寸の間でも疑ってなる者か。實、許して呉れ、許して呉れ。」
と全く胸の疑いを払い退け、漸(ようや)く我に立帰って、
「アア更に一層探偵しなければ分からない。ナニ未だ手掛かりは幾等もある。」
と呟(つぶや)きながら、我が家を指して帰って行った。
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