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人耶鬼耶(ひとかおにか) 小説館版
エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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裁判小説 人耶鬼耶 涙香小史訳述
第五章 私が小森侯爵の実子
若い弁護士澤田實は、素人探偵散倉に問い詰められ、暫し考える様子であったが、隠しても仕方が無いと思ったのか、意を決した様子で頭を挙げ、
「寡婦お伝は、澤田夫人の手先に使われた女です。」
散「お前は阿母(おっか)さんの事を、何故、他人の様に澤田夫人と云うのだ。」
實「アレは澤田夫人です。私の母ではありません。」
散「ナニ、母ではない。お前は先(ま)ア、気でも違いはしないか。」
實は非常に悲しみと怒りを帯び、
「気が違ったかも知れません。今まで母とばかり思って居たのが、全く母でもなく、用意ならぬ私の敵と分かりました。此様(こん)な意外な事に逢えば、誰でも気が違いそうになります。」
散「ハテな、愈々(いよいよ)分からない事を云う。母でなくて敵、フム敵、敵とは何う云う訳で。」
實「澤田夫人を敵と云っても、誰も本当には致しません。お伝さえ生きて居れば、私しの証人に成って呉れますけれど、彼(あれ)が死んでしまったから、私しの言う事は、皆嘘になります。」
散「先(ま)ア、好く詳しい事情を聞かせて呉れ。」
實「澤田夫人には、外に実の子があります。実の子に栄耀栄華をさせる為に、私の財産を奪い、名誉を奪い、それを実(じつ)の子に与えて有ります。今まで私しを可愛がったのは、真から可愛いいのではありません。私を可愛いがらなければ、実子の化けの皮が剥(やぶ)れるから、それで可愛がりました。
詰まり私を馬鹿にしたのです。私が今日(こんにち)此の通り、貧窮に苦しみ、一生懸命に稼いでも、我が身を養うのさえ難しい事に成って居るのは、全く夫人が私の身分と私の財産を奪って、実子に与えたからの事です。その代わり実の子は、貴族の家に育てられ何不足なく暮らして居ます。」
散「それでは、何かお前が貴族の子であるのに、澤田夫人が、人知れず自分の子とお前とを取り替えたと云うのか。取り替えて自分の子を、貴族の子にし、又貴族の子であるお前を、自分の子にしたと云うのか。」
實「先アその様な事ですけれど、お伝が死んだからは、その証拠が立証出来ません。」
散「それでは、お伝は何者じゃ。」
實「アレは、私を育てた乳母(うば)であります。私の身の上は何もかも知って居ました。」
散「それが死んだので、其方(そのほう)の証拠は消えて仕舞ったのか。」
實「イヤ、まだ消えては仕舞いません。不充分ですが、お伝が一言添えさえすれば、充分の証拠になる書面が有りますけれど、書面ばかりでは了(い)けません。」
散「だがお伝は、其方(そのほう)の乳母でありながら、何うして其方(そのほう)を取り替えたのだ。」
實「それがサ、金に目が眩(く)れたのです。一時は金に目が眩(くら)んで、取り替えましたけれど、年を取るに従って、次第に後悔を初めました。私しが此の間、アレの家へ行った時、お伝は涙を流して、私しに白状致しました。アレは私しを育てた丈で、私しが可愛いものですから、此様(こんな)に貧窮して居るのを気の毒がり、澤田夫人を、法廷へ訴えろと申しました。訴えれば、自分が証人になると云いました。
それのみならず、私が訴えなければ、お伝が自分から、自首して出ると迄申しました。実に可愛相な女です。」
散倉は真底から驚いて、
「それは実に容易ならない事柄だ。シテ此方(こなた)は、お伝に聞いて初めてその事を知ったのか。」
實「イエ、そうではありません。二十日ほど前に、少し調べたい事があって、澤田夫人の手文庫を明けましたら、その底から、思いも寄らない書付が出ました。その書附で、初めて気が附いたたから、それからお伝の處へ行って聞きました。」
散「聞いたらその書付に違いないと云ったのか。」
實「そうです。」
散「シテ其方(そのほう)の実の父母は全体誰だ。」
實「小森侯爵です。」
散「ヤ小森侯爵、それでは、アノ先年イタリア全権公使となり、先日まで外務大臣を勤めた皇族の小森侯爵か。」
實「ソの小森侯爵です。」
散「シテ其の書面と云うのは、何の書面だ。」
實「小森侯爵から澤田夫人に寄越した、百通余の手紙です。」
散「ナニ小森侯爵が澤田夫人へ手紙を。それでは、澤田夫人は小森侯爵と知り合いか。」
實「知り合いどころではありません。侯爵の妾でした。隠し妻でした。」
散「ハテな、此の一夫一婦の法律を破って、隠し妻、ソリャ益々不思議だ。それで何して取り替えたのだ。」
實「私しは侯爵の本妻腹へ胎(宿)った子であります。その頃丁度澤田夫人の腹にも子供が出来ました。
所が其の子は法律に背く子で、一生日陰者ですから、夫人はそれを可愛相と思って、私しと取り替えたのです。私しを自分の子にして、真実自分の法律に背く不正の子を、堂々たる小森侯爵の子にしたのです。
今小森家の嫡男伯爵小森有徳(ありのり)と、名乗って居る貴公子が、即ち澤田夫人の実の子です。私しの名前を騙(かた)って居ます。実に私しは、皇族の腹に生まれながら、邪険な澤田夫人の為めに、身分もない此様(こん)な者に成ったかと思うと、骨身を砕かれるより口惜しく思います。
此の仇きは、何うしても返して遣る積もりです。小森有徳の、化けの皮を破る積もりで居ましたのに、肝腎の証拠と頼むお伝が、殺されて仕舞いました。」
と一言は一言よりも急に、一句は一句よりも怒りを現し、終(つい)には、口惜(くや)しさの涙に咽(むせ)んで、其の声は咽喉(のど)に詰まり、一語も言うことが出来なくなった。
散倉はその背を撫でながら、
「コレ 、實(みのる)泣くな。泣くな。もう少し聞かせて呉れ。口惜(くや)しかろうが、愈々(いよいよ)そうと分かれば、敵(かたき)を取る思案は幾等もある。もう少し聞かせて呉れ。シテ小森侯は其の事を知らないのか。」
實「侯爵は知って居ます。侯爵が澤田夫人に、取り替えの事を勧めたのです。」
散「ヤヤ、侯爵が勧めたとな。それは全体何う云う訳で。」
實「侯爵は澤田夫人の愛に溺れ、本妻を悪(憎)んだのです。余り本妻を邪険にした為、本妻は死にました。其の死んだ本妻が私しの実母(おっか)さんです。
そうです、侯爵は、此の通り本妻が悪(憎)くいから、本妻の子の私まで悪(憎)がって、澤田夫人の子を可愛がり、終に夫人の子に後を襲(つ)がせる積もりで、夫人に勧めて二人を取り替えさせたのです。
私が生まれて二月も経たない中に、取り替えました。それは侯爵から夫人へ、その事を勧めて来た手紙に詳しく書いてあります。その手紙が澤田夫人の文庫に在りまして、ツイ私しの手に入ったのです。」
散「フムそれでは澤田夫人よりも、侯爵が悪いでは無いか。」
實「ハイ侯爵も悪いけれど、之は私しの父ですから、憎いとは思いません。父を憎んでは罰が当たります。私は唯澤田夫人が、今まで二十七年の間、ソラゾラしく私しを子の様にして、可愛くもないものを、可愛いなどと云ったのが、憎う御座います。」
散「オオ感心じゃ、道理じゃ。ドレ、先アその手紙を見せて呉れ。」
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