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人耶鬼耶(ひとかおにか) 小説館版
エミイル・ガボリオ原作 「ルルージュ事件」 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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裁判小説 人耶鬼耶 涙香小史訳述
第六章 証拠の手紙
澤田實は頓(やが)て、本箱の抽斗(ひきだし)から、一束の手紙を取り出して、探偵散倉に打ち向かい、
「此の手紙が私しの手に入ったから、澤田夫人は実の子が、化けの皮を剥(は)がれると思って、それで此の頃病気に成ったのであります。」
と云いながら束を解き、
「都合百三十通ありますが、その中、百通は私しが生まれる前の手紙なので、別に証拠にはなりませんが、それでも澤田夫人が、小森侯爵の妾と云う証拠には充分です。残りの三十通の中で、先ず是からお読み下さい。」
と差し出すのを、散倉は手に取って見ると、これは是、今から二十八年前、小森侯爵がイタリア全権公使だった時、イタリアから送ったもので、上封の消印迄歴々(ありあり)と残って居るので、疑う所は全くありません。その文は、
「我が愛する澤田嬢よ、嬢が腹に宿って居るのは、私の子である。その子が若し男子ならば、私は必ず之に小森の姓を名乗らせる。私の心は、暫(しば)しも嬢の肌身を離れない。
嬢が花の姿は、絶えず私の目の前に浮かんで居る。嬢よ、私は妻を娶ったが、今でも嬢の為には、命をも棄てる程の決心である。私が嬢を愛する心は、妻を娶ってからも益々深い。嬢よ嬢よ、私の妻も又私の胤を孕んで居る。
しかしながら私は、妻を愛しては居ない。又その子を愛しはしない。愛して居ない妻に宿った、愛して居ない子に、如何(どう)して小森家を、相続させられようか。
私は之に附き、既に工夫した事がある。妻の子を捨てなければならない。嬢の子を私の家に入れなければならない。しかしながら、今はまだ、生まれて居ない事なので、委細の相談は、次便に譲る。
實「サア、上の手紙で見れば、私が生まれる前から既に、私と澤田夫人の子を、取り替える計画があったので、次は此の手紙をお読み下さい。」
散「ドレドレ」
と言って受け取って見ると、
寵(いと)し可愛いい澤田嬢よ、嬢の手紙は今朝着きました。私は幾度か接吻して開き見ましたが、嬢の子の誕生した事を知りました。嬢の子は私の子です。殊(こと)にその子が男子であることは、重々の喜びです。
嬢よ、本妻の子も昨日生まれました。同じく男子です。嬢よ、私は今迄、幾度も嬢に勧(すす)めた様に、早速に嬢の子と本妻の子を、取り替ようと思います。
此の事は、至急に果たさなければ、子の顔に見覚えが出来るので、本妻に覚られる恐れがあります。嬢よ、少しも猶予すること勿(なか)れ。
散「成る程、是は恐ろしい企(たくら)みじゃ。ドレ次を見せろ。」
「嬢よ、澤田嬢よ、嬢が早速に私の言葉を承知したことは、誠に有難い。就いては私が、腹心の従僕(しもべ)、次郎なる者に言い含めたので、嬢よ、安心せよ。その手筈は下の通り。
〇次郎は或る仕立屋で、寸部違(たが)わぬ、小児の着物二枚を作り、一は妻の子に着せ、一は汝(なんじ)の子に着せるのだ。
〇次郎の知り合いのお伝は、嬢の子を連れて、国境まで出て来て、国境の或る宿屋で泊まる筈である。
〇私は来月一日に、妻の子とその乳母を連れ、当地を出立し、国境まで出て行きます。
〇出て行って、お伝の泊まって居る宿へ、知らぬ顔で泊まる筈です。
〇その宿屋で、次郎の図(はか)らいで、お伝と妻の子の乳母とを、一つの部屋に寝かせます。
〇是から後は、全くお伝の気転で、妻の乳母が寝鎮まるのを待って、お伝は秘かにその子を取り替える筈です。
〇私はその積もりで、既に非常に寝坊の女を、妻の乳母に雇入れたので、万々失策は無い。安心せよ。とりわけ妻の乳母は、酒吞みなので、その夜、次郎の手際によって、充分に強い酒を吞ませ、グッスリ寝込せる筈である。
〇此の女は一たび眠れば、八時間の間は揺り起こしても、目は覚めません。喜ぶべし、喜ぶべし。
散「此の次の手紙は」
實「此の次は、今の手紙に在った、国境の宿屋から出したもので、即ち是です。」
散「ドレ」
「澤田嬢よ。私は約束の通り、今日此の宿に着きました。お伝も既に来て居るので、私は人知れず、お伝に逢い、嬢の生んだ児(こ)を見たところ、流石は私の胤だけあって、既に後々出世の相がある。容貌の美しいのは嬢に似たのだ。
心の麗しいのは私に似たことは疑いなし。
この様な愛らしき子を、アノ憎い妻の子と、取替えれば、私は死すとも、憾(うら)みなし。嬢よ次郎の計らいで、既に妻の乳母には、充分に酒を吞ませて寝かせました。
お伝は既に嬢の子を抱き、同じ部屋で寝ました。アア喜ぶべし。此の事は、お伝と次郎の外に知る者は居ない。二人とも充分な口留めを取らせるので、決して他言はしません。
嬢よ、明日から嬢の子は、妻の子です。妻の子は嬢の子です。嬢よ、唯此の上は、妻の子を養いなさい。嬢の児は明日から、皇族小森有徳と名乗らせ、私自ら充分に養育します。」
散倉は益々驚き、
「是は恐ろしい。ドレ次の手紙を見せろ。」
實「此の次の手紙がある様なら、充分な証拠になりますが、是れ切りで後がないから、裁判所へ持ち出す程の証拠にはなりません。」
散「成る程、是れでは、お伝と本妻の乳婆(母)を、一つの部屋へ寝かせたと云うだけの事で、愈々(いよいよ)首尾好く取り替えたか、或いはその場で、本妻の乳母が目を醒(さま)し、取り替えずに仕舞ったか、それは分からない。併しまだ何かあるだろう。」
實「もう一通ありますが、是はその後、幾程か経って、澤田夫人が不義を働いて居る事が、父に分かり、父が立腹して書いた離縁状ですから、別に証拠にはなりません。」
散「先ア、それでも好いから見せろ、ドレドレ。」
「澤田嬢よ、私は今日、貴女の不義の証拠を見届けたからは、貴女に於いても、最早や言い訳はないだろう。今日限り、私は貴女を離縁します。
貴女は既に私の外に、蜜夫(みっぷ)と相逢(あいびき)したからは、私が今まで我が胤を思い、我が子と愛した貴女の子も、私の胤に非(あら)ざるかも知れない。アア密夫の胤を、我が胤と思い、今日まで愛したのは、実に私の失策である。
しかしながら、此の事ばかりは、今となっては取り返しが附かない。私は先年の事を後悔しています。」
散「なる程、是れは離縁状だが、是れで見れば、愈々(いよいよ)取り替えたに相違ない。茫然(ぼんやり)と書いてあるけれど、先年の事を後悔すると云うのは、アノ事に違いないが、それにしても、お伝が殺されたのは、返す返すも残念だ。シテ貴方(そなた)は未だ、此の手紙を誰にも見せはしないだらうネ。」
實「イエ、三日の日に私しは、此の手紙を持って、小森侯爵の家へ行きました。折りから侯爵が留守中だったので、その息子、イヤ澤田夫人の子に見せました。」
散「ナニ小森の偽息子に、此の手紙を見せたとナ。馬鹿奴(め)が、之を見せて堪(たま)るものか。だからお伝が殺されたのだ。」
と云おうとして思いかえし、
「ソレは抜かった事をしたナア。」
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