巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma11

人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.3.22


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)十一 「試験の様にも見える」

 実に輪子の怒りは沸点に達した。人間の声とは聞こえない様な声で、そうさ殆ど或る獣物(けもの)が悲鳴する様な声で、
 「此の恩知らずめ。恩知らずめ。咆(ほ)えて槙子に迫り、手を振り上げて、殆ど擲(なぐ)り倒し相にした。槙子は何事とも知らないけれど、驚き懼(おそ)れて、

 「何で私にその様な悪い所が有ります。有れば何の様にもお詫びしますから、何うぞここが悪いと仰有(おっしゃ)って下さいまし。」
と云いつつ壁の所へ身を避けた。風間夫人は直ぐに立って輪子を抱き留め、
 「貴女の振る舞いは、先ア何と云う事です。」

 厳かな言葉で矯(たし)なめたけれど無効である。輪子は殆ど夢中の様で、夫人を振り離なそうとして居る。
 輪子が此の様に怒るのは、一種の病気と云うべきである。気儘(まま)が亢じて終に、自分で自分の怒りを制する事が出来なくなったのだ。此の様な時に輪子を制する事が出来るのは唯だ博士一人だ。流石に父の言葉には、此の気違いじみた女も鎮まってしまうのだ。

 そうと見て直ぐに博士を呼びに行ったのは一川夫人である。やがて博士は来て、
 「又病気が起こったのか。此方へお出で。」
と云って手を取った。そうして槙子へは一二言の慰め言葉を残して輪子を連れ去った。風間夫人も続いて立った。夫人は之をも博士に取り入る一つの機会と思って居るのだ。

 その後で槙子は一川夫人、二川夫人に事の譯を尋ねたけれど、何故に輪子が怒ったかは、遂に合点が行かなかった。けれど打ち詫びる外無いと思い、何事も下から出て、翌日は輪子の機嫌を取るのに殆ど一日費やした。是れが人の家に厄介と為って居る身の悲しさである。

 又その翌日は、先達って訪問せられた丈夫の母御の許へ、返礼の意味で輪子と風間夫人と槙子と三人で尋ねて行く事に成った。槙子は赤ん坊を連れてと云う譯には行かないから、その守を一川二川両夫人の中へ頼んで置いた。そうして愈々(いよいよ)伴野家へ着いてから、イヤ別に太した事柄も無かったが、丁度丈夫も家に居たので、第一に輪子が丈夫を自分の傍に引き附け、それからそれと話を仕掛て殆ど動かさない程にして居る。

 丈夫は之が為に槙子と輪子との優劣が浸々(しみじみ)分かった。槙子の方は何事も控え目にして、丈夫の母御に向かっても、成るべく風間夫人の後へ後へと廻る様に心掛けた。母御も同じく槙子と輪子の優劣を浸々(しみじみ)感じた。のみならず母御は槙子が如何に辛い地位に立って居るかと云う所をも察して、深い同情を表し、切めては博士に談じて、気の利いた乳母でも附けて遣る事にしたいと迄に思った。

 それが為に、幾時間の後、一同が分かれを告げて帰ろうとするに当たり、母御は輪子に向かい非常に軽く、
 「槙子さんだけを少しの間、私にお借し下さい。後から人を附けて帰しますから。」
と、否やを云う余地の無い様に云った。輪子は非常に厭な顔をした。その顔を見て取った槙子は、

 「イイエ伴野夫人、私は赤ん坊の事も気に掛かりますから、又此の次に緩々と。」
と言い掛けた。
 母御「赤ん坊は一川二山両夫人に頼んであると云ったでは有りませんか。年の行った方が二人も附いて居て、何で貴女へ心配させる様な事が有りますものか。ネエ風間夫人。私は色々豪州の事も聞き度いですから。」
と風間夫人まで引き込んだのは、流石に五十年来浮世の波風を漕ぎ分けた手際である。

 夫人も異存を言い度いけれど云う異存が無い。止むを得ずして、輪子に、
 「伴野夫人があの様に仰有るから、ねえ、輪子さん。」
と云うと輪子は憤然として、
 「私は知りませんよ。」
と言って馬車に乗った。風間夫人も続いて乗った。槙子は其の去るを見送りつつ非常に心配そうに、

 「宜しいでしょうか。宜しいでしょうか。」
と母御に問うた。
 心配は心配ても実は嬉しい。此の国へ着いてから、自分へ親切にして呉れるのは、唯だ此の親子と父博士のみである。されば暫くする間に槙子は我知らず落ち着いて、腰を下ろしたが、誠に女同士と云う者は、男子には合点の行かないほど沢山の話をその狭い胸へ詰め込んで居る者で、放って置けば何時間でも話合って居る。

 殆ど滾滾(こんこん)として尽きずと云う様が有る。その中に母御の言葉は槙子の身の上の問には移ったが、是は槙子の方で兎角に避けたがる様に見える。僅かに話したのは其の身が五、六歳の頃、一人の姉妹と共に父に連れられ豪州へ渡り、その後父も姉妹も病死して自分一人残ったと云う丈である。

 母御「シテその父上の亡くなられたのは、貴女が波太郎と婚礼する前ですか。」
 槙子は波太郎の名をさえ嫌う様子で、何だか厭な顔をして、
 「イイエ、その後です。三月ほど」
 母御「そうして姉妹は」
 槙子「ハイ、赤ん坊が生まれて間もなくです。」
と云いつつ、丁度丈夫に初めて逢った夜に、堪(こら)え得ずして泣いた様に泣き伏した。

 母御「それは実に不幸な御身の上です。父にも姉妹にも良人にも、少しの間に悉(ことごと)く亡くなられて、ホンに私も貰い泣きを致します。」
 勿論不幸と云う事は誰にも負けないほど嘗めて居る母御だから、自然と察しも強い、暫しの間全く貰い泣きをしたけれど、やがて言葉の調子を変えて、
 「イヤお話がこう段々陰気に成ってはいけません。サア気を持ち直して何か私に豪州の音楽でも聞かせて下さい。」
 最早や問うたとて此の上には身の上を打ち明けないと見たから、更に音楽で以て、それとは無く槙子の教育を試験するのでは有るまいか。何だか此の母御のする事は試験の様にも見える。

 けれど槙子はそうも思わない。却って自分の厭う身の上話しを、他へ転ずるのを喜ぶ様子で、少しは辞退したけれど、やがて音楽の台に上った。そうして様々の曲を奏で始めたが、顔容(かおかたち)の美しさよりも、その技芸の熟達は又一段と素晴らしい。そうして声までも非常に豊かである。母御は感心して、

 「貴女は今少し流行の師匠を取れば、音楽で世を渡る事が出来ます。」
 槙子「でも私は生活の為と思って習った芸では有りませんから、成るべくは大いに人様の為になる仕事で、身を支えたいと思います。」

 此の様な事で夜に入るまで槙子は此の家に居た。やがて七時を報ずる時計の音に驚き、惜しい分かれを告げる事に成ったが、母御は人に送らせて遣ると云ったけれど、その送らせる人は丈夫より外には無い。又丈夫に取っても辛く無い任務である。



次(本篇)十二

a:131 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花