巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma12

人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)十二 「人知れぬ涙」

 槙子を送って行くと云うのは、辛く無い役目で有る。夜は宵ながら至って静かで、空には月さえ輝いて居る。田舎の事なので途中に邪魔な人目などは勿論無い。
 此の様な時に、槙子の様な美人の、暗に保護者と云う地位に立てて、その家まで送り届け、そうして礼まで云われるのは、大抵の若者が羨む所であるけれど、之が丈夫に取っては辛いのだ。嬉しい様で実は辛い。

 彼は波太郎の妻であった女を、我が妻にする者かと、立派に母へ言い切った。のみならず自分でも全くそう思い詰めて居るのだが、此の頃に成っては自分ながら少し驚く所がある。自分の心の底に、愛と云う恐ろしい一粒の種が何時の間にやら芽を吹いたのだ。今まではそれと知らずに居たけれど、今は自分で気が附いたのみならず、その愛の芽が段々に蔓延(はびこ)って、何うやら自分で制し切れない時が来はしないかと気遣われる。

 彼は今まで愛と云う者を知らない。一しきりは輪子の様子に甚(ひど)く感心はしたけれど、それは唯だ感心と云う丈で、愛では無かった。少しも自分で自分の心を制止切れない所は無く、静かに考えて静かに別れる事も出来た。分かれも身を裂かれる様に辛くは無かった。けれど今此の槙子に対しては自分で自分を制するのが実に辛い。身も心も唯だ槙子の方へ引き附けられる様な気がする。

 若し相手が、愛して好い女なら、辛くは無いが、全く愛して成らない女だ。何でも槙子の傍へは寄らない様にし、誰にも我が心に愛の微分子でも有る事を覚られない様にし、そうして必死に此の愛を今の中に揉み消さなけれねば成らない。それに就けては、槙子に口を利いても成らない。利けば必ず覚られる。

 槙子の事を思い出してすら成らない。思い出せば必ず愛が募る。今日もそれだから、成る丈は輪子の傍に居て、槙子の傍へは近寄らない様にして居た。それが槙子を送らなければ成らない事に成るとは、運の尽きでは有るまいか。と云って心の底には嬉しくて堪えられない様な気もする。其の嬉しいのが辛いのだ。何うにかして、嬉しくも何とも無い心にはならないだろうか。

 此の様に思うばかりで、槙子と共に歩みながら一言の話も仕かけない。槙子は妙に思ったか、途中で、
「丈夫さん、何うか成さったの。」
と少し心配そうに問うた。丈夫は、
 「イイエ」
と答える声にさえ。愛の響きが漏れはしないかと気遣い、努めて冷淡な調子で答えた。

 槙子は益々怪しく思うのみか、此の国に着いてから唯だ一人親切にして呉れた此の人に、この様に余所余所しくせられるとは、殆ど心細さに耐えられない。暫く考え込んだ末、泣き出し相な声で、
 「私は此の国へ着いてから、直ぐに人から愛想を尽かされます。輪子さんにも、―--貴方にも。」
と恨みの声が自然に洩れた。

 丈夫は真に断腸の思いであるけれど、今度は、
 「イイエ」
との返事さえ発する事が出来ない。

 槙子は是きりで無言である。唯だ心配そうに首を垂れて歩むのみだ。その中に博士の家の門前へ着いた。丈夫は重い口調で、
 「では是で御暇(おいとま)に致します。」
と述べた。槙子は一人で家に入れば、又何の様に輪子の怒りを受けるかも知れない。
 「何うか家まで」
と哀願する様に云った。言葉は極めて短いけれど、丈夫は金縛りにされた様で、背いて帰る力は無い。槙子の後へ随(つい)たままで、玄関から応接室まで行った。

 応接室へ先ず槙子が歩み入ったが、果たせる哉、輪子はここに居て、
 「余り遅いでは有りませんか。」
と云い、一昨日より猶一層の剣幕で、槙子に攫(つか)みかかろうとした。若し大げさに云えば、眼が血走って居るとも云い度い。口が耳まで割けないのが不思議な位だ。

 槙子は、
 「アレー」
と叫びつつ逃げる様に振り返り、丈夫の身に縋(すが)り相にした。丈夫は何事とも知らない中に、此の部屋へ歩み入ったが、実に輪子の表情に驚いた。

 輪子の方も丈夫が槙子の背後に随(つい)て居たとは知らない。意外に現れた丈夫の姿に、遽(あわ)てて自分の怒りを制し様としたけれど、全く一種の発病だから、制する事も出来ないのみかは、槙子が早や丈夫を自分の味方にしたかと思うと、又輪を掛けて怒りが沸却(にえかへ)った。

 「此の恩知らずめ。恩知らずめ。」
との言葉が部屋中に鳴り響いた。槙子は恐れて夢中で有る。
 「何うか私を連れ去って下さい。」
と云い、全く丈夫の身に縋(すが)った。
 若し連れ去って自分で保護する事の出来る女なら、丈夫は何れほど嬉しかろう。此の様な場合にも、彼はその落ち着いた気質を失わない。静かに槙子を押し退けて輪子に向かい、

 「何か槙子さんに悪い所でも有ったのですか。」
と問うた。輪子は天に叫ぶ様に、
 「アレ丈夫さんまで槙子の肩を持つ。憎らしい。憎らしい。」
 声の未だ終わらない所へ、博士が入って来て輪子を捕えた。輪子は藻掻き藻掻き鎮まって、部屋から外へ連れられて行った。

 流石父の手には此の様にも鎮まるのに、終に病の根が絶えないのは、博士が日頃の気質で、一時間を経ない中に全く此の様な事は忘れてしまい、浸々(しみじみ)と意見する事の無い為なのだ。

 丈夫は長居するのを好まない。まだ驚きの鎮まらない風間夫人、その外へ簡単に挨拶し、そのまま立ち去ったが、その時に非常に極まり悪そうに未だ丈夫の傍に立って居る槙子の顔へは、眼さえも注がなかった。全く槙子を自分の注意の外へ擯斥したかの様にも見えた。

 後に槙子は益々極まり悪そうに又心配そうである。自分が知らず知らずに丈夫へ縋り附いた振る舞が、如何にも端下(はした)なく見えたに違い無い。それが為め愈々(いよいよ)愛想を尽かされたに違い無い。こう思うと今更済まない思いに責められ、是も此の部屋に長居する事が出来ず、直ぐに二階へ上がって行ったが、人知れぬ涙が、暗い梯段の上に落ちた。



次(本篇)十三

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