巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma15

人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)十五 「彗星(ほうきぼし)」

 翌日果たして槙子はロンドンへ立ち去った。尤も一川夫人も同じ案内を道子から受けたと云う事で一緒に行った。そうして間もなく道子の一家と共に或温泉場へ立ってしまった。

 丈夫は槙子と分かれる事が、是ほど辛いとは思わなかった。分かれては居たけれど、逢い度ければ何時でも逢われたのだ。何時でも逢われるとの安心があったのだ。又実際の有様を聞く事も出来たのだ。今度の分かれは、そうでは無い。道子の家と云うのがロンドンの何所に在るか、それさえ知らない。

 温泉場とは何所の温泉場、何の様に日々を暮らして居る。問試みる手掛かりさえも無い。殆ど隠れた彗星の様な者だ。呼び返す事も出来なければ、何時再び現れると云う当ても無い。

 全く丈夫は自分の身体が半分は無くなった様に感じる。物足らない心地どころでは無い。非常な苦痛を覚えるのだ。職業も手に就かなければ、気の持ち方も定まらない。忽ち郷里へ帰ったり忽ちロンドンへ出直したり。迷い犬の様で幾月かを送った。

 その中に道子一家が温泉場からロンドンへ帰って来たとの話を、博士の家で聞きは聞いたけれど、帰っても帰らなくても自分に取っては相も変わらない彗星である。之が為に少しも自分と槙子との間が接近する譯では無い。

 何うかして此の彗星を忘れない限りは、自分の生涯は苦痛に終わると、この様に思案が就くけれど、その忘れると云う事が出来ないのだ。是れが自分の身に定まった天運だろうか。自分は終に、遂げぬ恋に苦しみ死ぬと云う性分に生まれついて居るのだろうか。

 こう思うと世の中が厭になる。全体世の中に生まれて出たのが恨めしい。寧(いっ)そもう職業も何も彼も捨ててしまおうかと、半ばは自狂(やけ)の気味になり、或る時飄然と母の許に帰り、

 「私はもう当分ロンドンへは行きませんよ。」
と云った。
 母はこのところ丈夫の様子が、何と無く悲しそうに成って行く様を察して居る。或いは幾等稼いでも、到底伴野荘園を受け戻す見込みが立たないので、絶望したのでは有るまいかなどと、此の様に思い遣ると実に傷(いた)はしさに堪えない。

 世が世ならば名誉ある男爵家の当主として、とっくに妻までも定まり、荘園から揚がって来た莫大な収入で何不足も無く、或いは社交界、或いは政界に、随分名も揚げて居ようのに、来年が卅歳と云う今になって、云わば公の慈悲も同様な準官吏と云う俸給に命を繋ぎ、人生の楽しさが何であるかと云う事も知らずに、夜の目も寝ないほどに稼いで居る。

 それも今時の若者には珍しい、好い心掛けの男なのにと、母御は浸々(しみじみ)同情を催して、何うにかして元気を出させて遣り度いものと、
 「オオ暫(しばら)くロンドンへ行かずに居るのも宜かろうよ。幸い今夜は天気も好し。久し振りに博士の許へ行き、天文台へ上ったら宜いだろう。」

 好きな事を勧めても、丈夫は少しも元気にならない。
 「博士の許へ行っても詰まりません。」
 幾等槙子が天女の様に美しくとも、天文台からその顔が見られる譯では無い。

 母御「いつも其方は云うでは無いか。限り無い天体の広さを見ると、自然に心が高尚になって、何の様な心配事も忘れてしまうと。」
 その忘れられる様な心配と心配の質が違う。
 母御は慰め兼ねて、更に四方八方(よもやま)の話を初めた。その末に、

 「先日も博士が内山夫人の許へ来て、アノ槙子の事を話したが。近々看護婦に成る積りで勉強して居る想だ。」
と語った。槙子が看護婦に、実に意外な事柄である。丈夫は何気無く構えたけれど、殆ど構え切れない。

 「エ、博士がその様な事を許しますか。」
 母御「許しますとも。博士は何でも当人の云うままに任せて置くのが癖なんだもの、輪子の妹鈴子なども近々女医者になるでは無いか。」
 丈夫は再びは問わなかった。けれど暫くして、

 「阿母さん、私は今夜博士の許へ行き天体を見て来ますよ。」
と云って家を出た。母御は丈夫の心が何れほど槙子に占領せられて居るかと云う事を皆まででは無いが、大方察した。

 槙子が看護婦になるとは全く思いも寄らない所である。丈夫は大いなる決心を起こした。きっと人の厄介になるのが辛くての事だろうが、その辛いのを此の身が余所に見て居られようか。之を余所に見て捨てて置く様では、此の身の愛は、その愛せられる人に取り、少しも有難い所は無い。愛せられないのと同じ事だ。

 丈夫は決してその様な無意味な男では無い。敵としては恐ろしく、味方としては頼母しいのが、本当の男だと兼ねて心に期して居る。丈夫の愛が何ほど頼もしいかと云う証拠を、事実の上に見せなければ成らない。槙子を、人の厄介と為るに及ばない様な地位に立たせて遣らなければ成らない。

 一言に言えば、槙子を我が妻にしなければ成らない。波太郎の未亡人にもせよ、素性の分からない女にもせよ、その様な故障に目が眩れては男で無い。知らぬ他国で看護婦にも成ろうと云うのだもの。その心中を察すれば、夫(おっと)の少しくらい貧しいのは苦にもしないだろう。貧しくとも此の身の妻として独立すれば、気兼ねの多い厄介者で居るには及ばない。

 丈夫の心は全く新たな一世界が開けた様である。厭な世の中が急に天体よりも広く見える。彼は博士の家へ着くま迄に、既に十分な思案を定め、やがて天文台へ入ったけれど、その目的は唯だ槙子の厄介になって居る、道子の家の番地を問うだけである。博士は答えた、
  
 「貴方が今まで道子の家を尋ねて下さらないのは殆ど欠礼の様な者です。道子も鈴子も、イヤ槙子までも、きっと喜びましょう。爾(そう)、爾」
 丈夫は翌朝家に帰り、
 「阿母さん、私はロンドンへ行きますよ。」
 母御は怪訝(けげん)そうに、
 「オヤ、其方は昨夜ロンドンへは行かないと云ったのに。」

 丈夫「ハイ、昨夜とは事情が違って来ました。」
 此の日の中にロンドンに着いて、直ぐに道子の家の玄関を叩いた。



次(本篇)十六

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