巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma17

人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.3.28


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)十七 「暗い所」

 頼り少ない槙子に取り、丈夫の様な頼母しい男から妻になれと云われるのは、宛(あたか)も難船の客が親船に救われる様な者だ。嬉しさに飛び立たなければ成らない。イヤ実際槙子はその嬉しさに飛び立って居るのだ。然るに自分の口から此の婚礼を「出来ない」事の様に云うのは、何か仔細が無くては成らない。

 丈夫の心が日頃の半分でも落ち着いて居たならば、必ず此の返事は尋常(ただごと)で無いと思い、深い仔細の有る者と見て取る筈だ。所が今はそれが出来ない。単に何かの遠慮だろうと思い做(な)して、益々熱心に掻き口説く許りだ。槙子は涙ながらに再び云った。

 「いけません。私の身には貴方の妻になる事の出来ない譯が有りますから。」
と是だけに云われても、未だ太した事とは思わない。勿論太した譯が有る筈が無い。既に夫に死に分かれて綺麗な自由の身と為って居る上は、誰に婚礼するも随意と云う者。

 「エ、その譯ハーーーその私の妻に成られないと云う仔細は。」
と、直ぐに説明の出来る事柄か何かの様に問うた。その様な軽い事柄なら、槙子が此の様に泣きはしない。
 若し丈夫にして、槙子が初めて此の国に上陸した時、その身に「悪事」が有ると云って、殆ど打ち明け相にしたのを、遮り止めずに置いたならば、今更ら此の様に問う必要も無いで有ろうが、今はその遮り留めた事さえも忘れて居る。

 毛ほどでも槙子の身に暗い所などの有ろうとは思う事が出来ない。
 「サア槙子さん、何の様な仔細ですか。」
 槙子は殆ど打ち明け相にもした。けれど打ち明ける事が出来ない。今更何して打ち明けられる者かとの心が充分ある。とは云え、何とか云わない譯には行かない。当惑そうに躊躇した末、僅かに唯だ一言だけ洩らした。
 「貴方の妻に成れる様な立派な身では無いのです。」

 立派な身では無い。
 「そう仰有(おっしゃ)るなら、私こそ貴女の夫に成れる様な立派な身で無いかも知れません。過ぎ去った事は少しも言っこ無しに仕ましょう。」
 丈夫が槙子を信ずるのは、殆ど神を信ずる様だ。一点も咎むべき所が有ろうとは思う事が出来ない。

 こうまで深く思われて居ると思えば、槙子の心は益々辛い。我が身に取って此の様な救いは又とは来ない。ここで此の救いを受け、難船から親船へ、先の云うがままに乗り移る事が出来たら、何れほどか嬉しかろう。

 「何うか丈夫さん、明日まで私に考えさせて下さい。その上でお返事しましょう。」
 丈夫を断るのがその心に何れほど辛いかは、此の一語で分かって居る。明日まで考える中には、今の境遇の儚(はかな)い事が浸々(しみじ)み分かり、益々丈夫を断わる事が出来なく成って、終に「応」と云う返事よりほか、出ないに至るのは極まって居る。

 丈夫も大体は最早や我が事なれりと見て取った。けれど今日と明日との間が、百年も長い様に思われ、明日まで待つと云う事が出来ない。ここで今返事を聞かなければ、槙子の身が消えて無くなるかの様に気遣われる。

 「そう云わずに、何うか今直ぐに返事して下さい。」
と幾度も繰り返して促したけれど、槙子の返事は少しも変わらない。何度云っても明日までである。
 仕方無く之に従い、

 「では明日の早朝に来ますから。」
と云い、立ち去ろうとすると、槙子は此の家の人々が、自分へ親切にして呉れるから、何うか逢って行って下さいとの意を述べた。是れも好い方の前兆だから丈夫は承知したが、槙子は安心の状(さま)でここを退き、道子その他へ打ち合わせたと見え、やがて出て来て、自分で丈夫を奥の部屋へ案内した。

 ここには早やお茶も入れて有って、道子とその夫と、鈴子とが控えて居る。槙子の小児は一川夫人が守して居ると云う事で、ここには見えない。そうして道子の夫と云うのは、可成り流行って居る画工で、此の頃の画工の様に、髪の毛は長くして居ないけれど、親切相な人である。

 此の中で丈夫の知った顔は鈴子だけだが、是も前年見た時よりは、見違えるほどその美しさが発達して、その上に医術試験に及第したと云う丈に、医者らしい所も見える。之を我が弟次男の妻にする事が出来たなら。次男は何れほど幸いだろうと、日頃思った事の無い事をまで思うのは、自分の今の身につまされると云う者だろうか。一応の挨拶が済むと、丈夫は之に向かい、

 「次男から手紙が来ますか。」
と問うた。
 「ハイ、毎月二度づつは必ず参ります。」
 さてはその情交が少しも退歩はしないと見える。今度は鈴子の方から、
 「姉輪子に時々お逢でしょうね。」
と問うた。

 今の場合では余り問われ度くない事柄である。
 「イイエ、久しくお目に掛りません。」
と丈夫は答えた。
 鈴子「道理で貴方のお顔は大層心配気に見えて居ます。」
事情を知って揶揄(からか)うかの様にも聞こえる。

 丈夫は早く他へ話を移したい一心で、
 「イヤ貴女の御診察は怖いですよ。」
と是も冗談に云ってしまうのは、和楽(なごま)せる家庭の様と云うべきである。
 初対面の割には総体の話が持てた。そうして愈々(いよい)よ分かれを告げる時に、道子夫婦から、
 「明日は是非晩餐にお出で下さい。」
と案内された。

 願っても無い首尾と丈夫は是に応じたが、槙子へ向かっては、
 「けれど貴女のお返事は、朝の中に聞きに来ますよ。」
と細語(ささや)いた。そうして立ち去った。槙子の方は直ぐに自分の部屋へ退いた。
 是は殆ど泣く為の様なものだ。



次(本篇)十八

a:37 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花