巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma18

人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)十八 「何にも知らぬ」

 槙子の隠して居る「悪事」は何で有ろう。余ほど気に掛かる事柄と見え、槙子は部屋に籠って唯だ泣くのみである。
 隠したままで丈夫の妻になるのも辛く、と云って今更打ち明ける勇気も無い。丈夫の様な厳重な人に、若し打ち明ければ、許し難い罪の様に云われ、まとまる者が破れるかも知れない。思案が決し兼ねて居る所へ、道子が入って来た。そうして槙子の尋常(ただ)ならない様を見て、

 「丈夫さんは貴女に何事を云って来ました。」
と聞いた。隠す譯にも行かないから、実は結婚の申し込みで有った旨を答えると、道子は驚きもし喜びもし、
 「それは貴女に取って、此の上も無い仕合わせです。何も考えたり泣いたりすることは有りません。そうして貴女は何と返事したのです。」

 槙子「明朝返事すると申しました。」
 道子は惜しむ様に、
 「何故明朝です。何故直ぐにその席で返事しませんでした。丈夫さんを失うのは、大げさに云えば生涯を失う様な者ですよ。」

 それは云われ無くても知って居る。全く丈夫は槙子が此の国に上陸した抑(そもそ)もの時から、槙子の心にこの世に又と無い人の様に写って居る。丈夫が槙子を思う心よりも、槙子が丈夫を思う心の方が、更に一層強いかも知れない。それだから泣きもするのだ。

 断っても好い人なら泣きはしない。何もこの様に途方に暮れもしない。道子は充分に槙子の心中を察した積りで、
 「貴女は波太郎の為に泣くのでしょうが。」
と言掛けた。

 その言葉の終らないうちに、槙子は殆ど腹立たしい様に、
 「イイエ、波太郎の為では有りません。」
と言い切った。何故だか知ら無いけれど、波太郎の名が出ると、直ぐに槙子の顔に忌まわしさに耐えられない様な色が見える。之は今始まった事では無い。多分は波太郎から、非常な虐待を受けた為でも有ろうか。

 この様な所へ鈴子も来た。そうして事の次第を聞いて、
「槙子さん。貴女は御自分の身に、少しでも落度が有れば、丈夫さんに隠しに隠してはいけませんよ。アノ方は厳重だと云う評判で、誰を見ても自分と同じ正直な者と思い。少しでも人の間違いを許す事が出来ないのです。

 私の姉輪子なども、何か落ち度を見附けられ、それが為に愛想を尽かされたに違い有りません。毛ほどの嘘でも、露見すれば非常な詐欺に逢った様に立腹すると、波太郎などが常に云いました。」

 鈴子は敢えて槙子の身に、隠して居る事が有るだろうと察して云っている譯では無い。唯だ思うままの事を、単に無邪気に云って居るのだ。けれど此の一語が、槙子の胸に少しばかり残って居る勇気を、挫折(へし)折ってしまった。是を聞かなければ、槙子は或いは打ち明けたかも知れない。是を聞いてはとても打ち明ける心は出ない。

 若し自分の身に、少しでも暗い所が無い者なら、その様な厳重な人を、夫とするのが何れ程か嬉しいだろう。向こうの厳重に連れて、益々此方の形見が広くなるのだ。此の身とても初めから家庭らしい家庭に育ったなら、必ず夫の厳重を此の上も無く喜ぶだろうにと、今更恨めしくも思われる。

 此の夜一夜を、槙子は殆ど考え明かした。そうして夜の明けた頃、ヤッと一先ず何も彼も天に任せて置いて、成るたけ丈夫が覚(さと)る様に仕向けよう。それで丈夫が覚れば好し。覚らなければ覚らないままにして置く事にしよう。詰まる所、丈夫の裁判で定まるので、自分から隠すと云う事は決してしない。向うから問われれば打ち明けるのだ。問われなければそのままにして置くのだ。

 実は此の様な、何方(どちら)とも附かずの思案が、一番悪い。隠すなら何所までも隠す。白状するなら何所までも白状するのが、禍の根を断つと云う者で、槙子としても、それを知らないでは無い。知って居てその二つに一つを選ぶ事が出来ないのだ。出来ない様な場合に成り来たって居るのだ。

 それで翌朝、丈夫が来て、昨日の返事はと聞かれた時、槙子は答えた。
 「何方でも私は貴方の言葉通りに致します。その代わり貴方から、約束を得て置かなければ成りません。」
 
 丈夫は早や嬉しそうに、
 「約束、ハイ、約束なら何の様な約束でも結びます。一言も聞かないうちに。」
 槙子「長い話では有りませんから、先ずお聞き下さい。何時かもお話申した通り、私の身は、イヤ私は、決して貴方の思う様な善人では有りません。」

 云い掛けるのを丈夫は遮り、
 「イヤ善人で有るか無いかは私が知って居ますから、その様な事なら今言うに及びません。」
 槙子「イイエ、言わなければ成りません。多分私は悪人と云う事が露見する時がーーーハイ貴方に分かる時がーーー来ようかと思います。その時に私の罪を許して下されましょうか。」

 許す事の出来ない様な罪悪が、此の女に在ろうと思う程なら、頭(てん)から縁談を申し込みはしない。。
 「勿論許しますとも。それは固く約束して置きます。」

 殆ど無益な約束の様に思った。実際に此の約束を思い出す様な場合が出ようとは、少しも思わない。唯だ槙子の気を休める為に、約束するのだ。けれど、若し丈夫にして、槙子の言葉が如何に心配そうに、その様子の如何に打ち萎(しお)れて居るかに気が附けば、こう軽い事柄の様には思わなかっただろう。

 槙子「イイエ、許して下さいとの約束では有りません。許さないと仰有(おっしゃ)られても、それは致し方が有りませんが。ーーー自分の落ち度だと断念(あきら)めますがーーー何うか荒々しくお叱り為さらない様にさえして下されば、私はアア此の身の罪を、お責めなさるのだと覚り、そのまま立ち去ってしまいます。貴方に叱られたり、恨まれたりして分かれますのは、何よりも辛いのです。それは耐(こら)える力が有りません。」

 何の様な悪事かは知らないが、実に女らしい心根では有る。許す事が出来ないなら、無言で傍へ寄らない様にせよ。そうすれば気が附いて、静かに去ると。妻たる者の心持ちは、総てこう有り度いものだ。丈夫は勿論感心した。そうして答えた。

 「実に夫婦はその様で有り度いと、兼ねて私は思って居ます。生涯を共にする誓いを立てて、そうして争ったり、恨み合ったりすることは、有るべき事では無いのです。萬が一にも、貴女の云う様な場合が来れば、貴女の今仰有っる通りにします。ハイ屹度(きっと)約束しました。」

 是だけ云い、是れだけ聞いて、槙子の胸は少し軽くなった。自然と浮かぶ安心の色を見て丈夫は熱心に、
 「では成る丈早く婚礼の日を取決めましょう。」
と云った。

 何者と婚礼するのか、何者に向かって丈夫は、婚礼を申し込んで居るのか。唯だ「我が愛する女」と云うより外は、何にも知らないのだ。



次(本篇)十九

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