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hitonotuma23

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)二十三 「お気の毒さま」

 丈夫は全く立ち上がった。輪子の口から槙子の事を聞けば、何うも好い事は云わないに決まって居る。
 「イイエ、貴女の口から槙子の事を聞くには及びません。」
と無遠慮に言い切った。

 輪子は大事な事を云わない中に去られては大変と、
 「お聞き成さらなければ帰しません。」
と尚も腹立たしい声で打ち叫び、更に、
 「丈夫さん、丈夫さん、槙子を波太郎の妻だったと思うのは、大変な間違いですよ。」
 丈夫に取っては実に意外な言葉である。聞くまいと思ったが、聞かない譯には行かない。

 「では誰の妻だったのです。」
 輪子はもう〆たと云う様で少し落ち着き、
 「イイエ、波太郎の妻同様には仕て居たけれど、妻と云われる身では無く、唯だ野合《正式な結婚をせずに男女の交わりをする事》の果てに子が出来た丈の事です。今連れて居る児も私生児です。」

 丈夫の顔は怒り、火の様になった。余りの事に暫(しば)しは返す言葉も出ない。
 輪子「それのみでは有りません。風間夫人が言いますには、槙子が今以て波太郎を憎んで居る所を見れば、全く波太郎に強姦せられ、それで子が出来たに違い無いと云う事です。」

 到頭、風間夫人を引き合いに出してしまった。夫人が若し此の席に居たならば、恐らく輪子と取っ組み合いを始めるだろう。
 「是を嘘と思うなら、丈夫さん、槙子に婚姻證書を見せろと云って御覧なさい。必ず證書は持って居ないと答えますから。それが何よりも正式に婚礼した事の無い證拠です。貴方の妻には強姦に汚された私通者が丁度お似合いでしょう。

 実に女の口から吐くべからざる、汚らわしい言葉である。丈夫は悔しさに耐える事が出来ない様で、両の拳を握り固め、
 「エエ貴女が若し男子なら、此の場で直ぐに決闘を仕ますけれど。」
 丈夫が怒るに連れて輪子の方は却って落ち着いた。是は気味好しと云う満足の為である。

 「オヤ、貴方は、御自分が妻に仕ようと云う女の素性を、人が親切に知らせて呉れれば、その人が憎いのですか。」
 充分に今までの仇を返えす事が出来た積りで、ゆっくりと自分の勝利を味わって居るのだ。

 丈夫「二度と再び槙子の事を仰有れば、幾等貴女が女でも、此のままでは置きません。名誉棄損の訴えを起こします。此の国の法律はこうまで人の名誉を傷つける事を決して許しては起きません。」
 物柔らかな丈夫がこうまでに云うのは、実に一通りの立腹では無い。

 輪子は冷ややかに嘲笑って、
 「婚礼の證書が無くて、名誉棄損の告訴も成り立た無いでしょう。オホホ、お気の毒さま」
 何たる憎らしい云い様だろう。今は冷熱全く地に替えた様な者である。丈夫の方が、咆え度くなった。

 丈夫は席を蹴立てて去った。輪子も充分目的を達したと思うから、もう引き留めもしない。門を出てから、腹立たしさに脇目も振らず、一直線に我が家を指して歩んで居るうち、夕方の寒い風に頭を吹かれ、煮え返った心が少し冷めて見ると、帽子を忘れて来たのであった。

 丈夫の身には前後に無い失態である。けれど取りには帰らない。そのまま我が家へ着くと、ここに立って寒さも厭わずに待って居るのが槙子である。その美しい親切な顔を見ると、丈夫の心は直ちに和わらいだのみならず、唯だ一時たりとも輪子の汚らわしい言葉に耳を傾けたのが、槙子に対して相済まない様な気がする。

 何して此の清い女に、輪子の云う様な汚らわしい事柄が有る者か。二度と再び輪子の言葉を思い出してすら成らないと、心の底で詫びを云う様にして槙子の手を取り、
 「此の寒いのに、ここへ出て私を待って居て下さったのですか。」
と優しく問うた。

 槙子「ハイ、それ許かりでは無く、余り此の邊の景色が好い者ですから、出て眺めて居たのです。」
 丈夫は此の言葉に、もっと景色の好い所へ、槙子を連れて行って遣りたいとの念を起こした。

 「それに就けても早く伴野荘を受け戻し、貴女向かって是が我が家ですと云う事が出来れば、何れほど嬉しいでしょう。」
 槙子「イイエ、家などは何所でも、睦まじく暮らす事さえ出来れば、嬉しさは同じ事です。」

 実に優しい心掛けでは有ると丈夫は惚れ惚れする様に聞いて、手を引き合ったまま家に入った。
 此の夜、丈夫が愈々(いよいよ)寝室へ退こうとする時、母御は用ありげに、
 「少しお待ち」
と呼び留めた。

 勿論槙子は既に寝た後なので、母と子との密談には最も好い時である。丈夫が心得て居直るのを待ち。
 母御「私は何だか気に掛かる。今日輪子の用事は何であった。」
 丈夫は母の耳へは、入れるに足らないと思って居る。

 「イイエ、何も詰まらない事です。」
 詰まらない事でも、母に聞かれれば、正直に打ち明けずには居られない丈夫が、今夜に限り言葉を濁すのはと、母御は却って怪しく思い、
 「詰まらない事と言って、何か槙子の素性に就いて、私の耳に入れ憎い様な事をーーイヤ根も葉も無い事を、有る様にーー云ったのでは無いのかえ。」

 こうまで問われて、打ち明けない譯には行かない。けれどまさか強姦云々と云う、穢い言葉まで伝える事は出来ない。
 「実は何です、アノー槙子が波太郎と正式に婚礼をしたのでは無いかも知れないから、婚礼證書を検めて御覧なさいと、何だか此の様な事でした。」

 輪子の云った百分の一にも足りない様に、和らげて伝えたけれど、母御は柔らかな言葉の中に、非常に恐ろしい意味を見て取った。そうして身を震わせた。此の家の嫁が私通者と云う様な、堕落の疑いを受けた事は、今までに無いことである。何が何でもその疑いを晴らした上で、人の口端を止(とど)めた上で、初めて婚礼させると云う事にしなければ成らないと、殆ど此の様にまでに思い始めた。



次(本篇)二十四

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