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hitonotuma24

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)二十四 「誠だと云うのですか」

 母御は、まさか槙子の身に、その様な汚らわしい事実は、無いだろうと思うけれど、無いとすれば尚更ら、打ち捨てて置く譯には行か無い。潔白な嫁を、潔白で無い様に噂せられ、それを無言(だま)って居ては、母たり姑たる役が果たせない。

 どうしても是れは、槙子に婚礼證書を出させ、自分が是れを持って輪子の許に行き、輪子に示して、そうだ無根の悪口など、云わない様にさせる外は無いと、此の様に思案を定めた。丈夫もそれと見て取ってか、最後に母に云った言葉は、
 「何うか阿母(おっか)さん、槙子の気色に障(さわ)らない様に、何事も極穏やかにして下さい。」
と云うので在った。

 その心は仮令(たとえ)素性を尋ねるにしても、成るたけ手柔らかに頼むとの意に外ならない。
 母御は、
 「素よりさ。」
と答えて寝に就いた。

 翌朝丈夫は、更に母御に槙子の事を頼んで置いてロンドンに立った。その後で母御は、少しの間途方に暮れる様であった。「婚姻の證書を見せよ」と云うのは簡単な事では有るけれど、云い様に依っては、随分槙子の気分を害する。「気分を害さない様に」とは丈夫の故々(わざわざ)の頼みで有る。

 豪州(オーストラリア)の事から話を始め、それと無く素性を聞いて、序(ついで)ながら、證書の事に言い及ぼそうか。イヤイヤ素性を聞くのは、別にその時が有るだろう。矢張り有りのままに、輪子が是々云っているから、その口を噤(つぐ)ませる為に、證書を持って行って見せなければ成らないと、そうだ、もう親子同然の間だから、他人がましく飾り立てなどしない方が却って好いだろう。

 漸(ようや)く思案が定まって、槙子を自分の部屋へ呼び入れた。是れは、この様な事柄を、内山夫人にさえ、聞かせ度くは無いと思う為である。槙子は何事とも知らず、座には就いたが、母御の顔に何と無く、重々しい所が見えるので、少し容(かたち)を改めた。けれど母御は極々手軽い口調の積りで、

 「少し話たい事がありますが、今朝ならば落ち着いて聞かれましょうね。」
 槙子「貴女のお話しならば、何時でも落ち着いて伺いますよ。」
 何気なく答えるものの、若し此の身の答え難い事柄を、問われるのでは無いかと、少し不安気な所も有る。

 母御「前から御存じでも有りましょうが、アノ輪子が貴女を恨む事は一通りでは無く、実は様々の悪口を云って居る様子なのでーーー。」
 槙子「その様に悪く仰有(おっしゃ)る筈も無いだろうと思いますけれど、」
と柔らかに調子を合わせた。

 決して槙子は、輪子の事でも悪(に)く気には云わない。憎くげに云うのは唯だ波太郎の事ばかりである。
 母御「余り謗(そし)り方が酷いので、丈夫はもう貴女を輪子に逢わせない方が好いと云って居ます。成るたけ輪子の許へは行かない様にーーー。」

 思案は定めて居るけれど、何うも言い出し難いので、話が自然と横道に反れたがる。その中に槙子の様子は、段々心配の様が深くなる。
 「ですが、輪子さんが何の様な事を-ー私の事を何の様にーー仰有るのでしょう。」
 母御は此の問を機会(しお)に、

 「余り酷いので、貴女の耳に入れ難い程です。けれど輪子はアノ通りの気質だから、貴女は気を悪くしてはいけませんよ。」
 槙子「ですが、何の様に言うのですか。何うかそれを聞かせて下さい。」
 母御「アノ、貴女がその実―-イヤ余り酷いから、素より根も無い怨(うら)み事に極まって居ますけれどね。貴女の事を波太郎の未亡人では無い。波太郎の妻と云うのでは無かったと云うのです。」

 真に腫物にでも障(さわ)る様に、用心に用心して云った。けれど槙子には非常に痛く徹(こた)えたと見える。宛(あたか)も急所をでも突かれたかの様に、槙子はビックリして、
 「何うして輪子さんにその様な事が。」
と叫んだ。

 後の語は続かないけれど、何うして分かったのだろうと、我知らず云い掛けた事は確かである。そうして槙子は反り返って背後へ靠(もた)れ、殆ど起き直る力も出ない。けれど槙子の驚きよりも、実は母御の驚きの方が上なのだ。まさか此の様な事は無いだろうと思った事が、何うやら有ったらしいのだ。

 少し絲口さえ耳に入れれば、ナニその様な事が有ります者かと云って、直ぐに自分から證書を持って来て見せる程にするだろうと、日頃の総ての振る舞いから考えて、此の様に待ち設けて居たのに、槙子が更にそうしないのみか、却って悪事を見現された罪人の様に、恐れ驚く様が有るとは、意外よりも忌まわしい限りである。

 母御も殆ど我が声を制す事が出来ない。泣き叫ぶ様な声で、
 「此の様な恐ろしい事柄が誠だろうか。誠だと云うのですか。」
 槙子は誠だとも誠で無いとも云わない。けれど誠だと云うよりももっと確かな白状と、認めなければ成らない言葉を繰り返した。

 「それほど恐ろしい事柄でしょうか。丈夫さんは、是を許して下さる事は出来ないでしょうか。」
 アア槙子は、総て四辺(あたり)が放埓(ほうらつ)な豪州の社会に育ち、而も不行き届き千万な父の振る舞を見慣れた為め、結婚せずに人の妻と為る事を、それ程までの恥とは思って居ないのだろうか。

 私通《密通》野合と云う事の、如何に汚らわしいことなのかを、感じないのだろうか。そうでも無ければ、丈夫が許して呉れる事の様に、問い返しなどする筈は決して無い。



次(本篇)二十五

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