巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma24

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.4. 4


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)二十四 「誠だと云うのですか」

 母御は、まさか槙子の身に、その様な汚らわしい事実は、無いだろうと思うけれど、無いとすれば尚更ら、打ち捨てて置く譯には行か無い。潔白な嫁を、潔白で無い様に噂せられ、それを無言(だま)って居ては、母たり姑たる役が果たせない。

 どうしても是れは、槙子に婚礼證書を出させ、自分が是れを持って輪子の許に行き、輪子に示して、そうだ無根の悪口など、云わない様にさせる外は無いと、此の様に思案を定めた。丈夫もそれと見て取ってか、最後に母に云った言葉は、
 「何うか阿母(おっか)さん、槙子の気色に障(さわ)らない様に、何事も極穏やかにして下さい。」
と云うので在った。

 その心は仮令(たとえ)素性を尋ねるにしても、成るたけ手柔らかに頼むとの意に外ならない。
 母御は、
 「素よりさ。」
と答えて寝に就いた。

 翌朝丈夫は、更に母御に槙子の事を頼んで置いてロンドンに立った。その後で母御は、少しの間途方に暮れる様であった。「婚姻の證書を見せよ」と云うのは簡単な事では有るけれど、云い様に依っては、随分槙子の気分を害する。「気分を害さない様に」とは丈夫の故々(わざわざ)の頼みで有る。

 豪州(オーストラリア)の事から話を始め、それと無く素性を聞いて、序(ついで)ながら、證書の事に言い及ぼそうか。イヤイヤ素性を聞くのは、別にその時が有るだろう。矢張り有りのままに、輪子が是々云っているから、その口を噤(つぐ)ませる為に、證書を持って行って見せなければ成らないと、そうだ、もう親子同然の間だから、他人がましく飾り立てなどしない方が却って好いだろう。

 漸(ようや)く思案が定まって、槙子を自分の部屋へ呼び入れた。是れは、この様な事柄を、内山夫人にさえ、聞かせ度くは無いと思う為である。槙子は何事とも知らず、座には就いたが、母御の顔に何と無く、重々しい所が見えるので、少し容(かたち)を改めた。けれど母御は極々手軽い口調の積りで、

 「少し話たい事がありますが、今朝ならば落ち着いて聞かれましょうね。」
 槙子「貴女のお話しならば、何時でも落ち着いて伺いますよ。」
 何気なく答えるものの、若し此の身の答え難い事柄を、問われるのでは無いかと、少し不安気な所も有る。

 母御「前から御存じでも有りましょうが、アノ輪子が貴女を恨む事は一通りでは無く、実は様々の悪口を云って居る様子なのでーーー。」
 槙子「その様に悪く仰有(おっしゃ)る筈も無いだろうと思いますけれど、」
と柔らかに調子を合わせた。

 決して槙子は、輪子の事でも悪(に)く気には云わない。憎くげに云うのは唯だ波太郎の事ばかりである。
 母御「余り謗(そし)り方が酷いので、丈夫はもう貴女を輪子に逢わせない方が好いと云って居ます。成るたけ輪子の許へは行かない様にーーー。」

 思案は定めて居るけれど、何うも言い出し難いので、話が自然と横道に反れたがる。その中に槙子の様子は、段々心配の様が深くなる。
 「ですが、輪子さんが何の様な事を-ー私の事を何の様にーー仰有るのでしょう。」
 母御は此の問を機会(しお)に、

 「余り酷いので、貴女の耳に入れ難い程です。けれど輪子はアノ通りの気質だから、貴女は気を悪くしてはいけませんよ。」
 槙子「ですが、何の様に言うのですか。何うかそれを聞かせて下さい。」
 母御「アノ、貴女がその実―-イヤ余り酷いから、素より根も無い怨(うら)み事に極まって居ますけれどね。貴女の事を波太郎の未亡人では無い。波太郎の妻と云うのでは無かったと云うのです。」

 真に腫物にでも障(さわ)る様に、用心に用心して云った。けれど槙子には非常に痛く徹(こた)えたと見える。宛(あたか)も急所をでも突かれたかの様に、槙子はビックリして、
 「何うして輪子さんにその様な事が。」
と叫んだ。

 後の語は続かないけれど、何うして分かったのだろうと、我知らず云い掛けた事は確かである。そうして槙子は反り返って背後へ靠(もた)れ、殆ど起き直る力も出ない。けれど槙子の驚きよりも、実は母御の驚きの方が上なのだ。まさか此の様な事は無いだろうと思った事が、何うやら有ったらしいのだ。

 少し絲口さえ耳に入れれば、ナニその様な事が有ります者かと云って、直ぐに自分から證書を持って来て見せる程にするだろうと、日頃の総ての振る舞いから考えて、此の様に待ち設けて居たのに、槙子が更にそうしないのみか、却って悪事を見現された罪人の様に、恐れ驚く様が有るとは、意外よりも忌まわしい限りである。

 母御も殆ど我が声を制す事が出来ない。泣き叫ぶ様な声で、
 「此の様な恐ろしい事柄が誠だろうか。誠だと云うのですか。」
 槙子は誠だとも誠で無いとも云わない。けれど誠だと云うよりももっと確かな白状と、認めなければ成らない言葉を繰り返した。

 「それほど恐ろしい事柄でしょうか。丈夫さんは、是を許して下さる事は出来ないでしょうか。」
 アア槙子は、総て四辺(あたり)が放埓(ほうらつ)な豪州の社会に育ち、而も不行き届き千万な父の振る舞を見慣れた為め、結婚せずに人の妻と為る事を、それ程までの恥とは思って居ないのだろうか。

 私通《密通》野合と云う事の、如何に汚らわしいことなのかを、感じないのだろうか。そうでも無ければ、丈夫が許して呉れる事の様に、問い返しなどする筈は決して無い。



次(本篇)二十五

a:34 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花