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hitonotuma26

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)二十六 「爾々、思ひ出しました」

 妙に合点の行った様で又合点の行かない様にも思われるのは、槙子の気絶する迄の言葉である。成る程、波太郎と正式に婚礼した者には違い無い。それを婚礼も経ぬ私通者か何んぞの様に疑われたので、問いの意味が分かると同時に、
 「汚らわしい」
と叫んで気絶したのだ。

 是れを思うと母御は実に、自分が問うたのが面目ない。何の様に槙子へ詫びて良かろうかと、殆ど思案も出ない程である。けれど又思うと、問の意味の分かるまで、槙子は我が問を何の様に誤解して居たのだろう。何の様に誤解して、白状も同様に見える彼の様な振舞をしたのだろう。

 確かに驚きもした、遽(あわ)てもした。そうしてその上に何か自分の身に悪い所の有る様な言葉をも洩らした。
成る程此の身が明白に、
 「貴女は婚礼せずに野合《正式に結婚せずに男女の関係を結ぶ事》したでしょう。」
と問うた譯では無いから、その意味を誤解したのは無理も無い様な者の、その驚き方が余(あんま)り劇(はげ)し過ぎた。

 全く悪事を見露(あらわ)された罪人の様に見えた。何と考えても、何所に何の様な誤解が有ったかが合点が行かない。けれど兎に角、正式な妻で有った事だけは分かったから、母御は不審よりも安心が勝って居る。従って、槙子に済まなかったと云う念が今は心に満ちて居る。

 介抱する間に槙子は正気に返った。母御は、
 「オオ槙子さん、気が附いて下さったか。本当に私は年甲斐も無く貴女を此の様な目に合わせて済みませんでした。丈夫から呉々も、良く傷(いた)わって遣って呉れと云われて居ながら。」
と充分に打ち詫びたけれど、槙子の様子は少しも元気が無い。是れも心に、余ほど気に掛かる事が有る様に見える。

 そうして槙子が正気に返ってから、第一に吐いた言葉は、
 「私は丈夫さんの妻には成れないでしょうか。」
と云うものであった。
 母御「何でその様な事が有りましょう。波太郎の妻で有った事を、承知の上で出来た縁談ですもの。正式の妻で有ったと分かって、丈夫も私も安心こそすれ、此の上兎や角云いますものか。」

 保証する様に慰めても、更に気が晴れる様子が無い。
 母御「唯だ輪子などが、貴女の事を悪し様に云うのは、止めなければ成りませんが、之を止めるには、婚姻証書を持って行って突きつけて遣る外は有りません。婚姻證書はーー。」
と云い掛けて、少し言い難い事柄で有るから、少し澱んだけれど、

 「此の国へ来る時若し忘れてでも。」
 槙子「何うか道子さんの許に在る、私の手文庫をお取り寄せ下さい。」
 母御「その中に婚礼證書が」
 槙子「ハイ多分入って居るだろうと思います。」

 有ると分かれば、今直ぐに取り寄せるにも及ばない様な者の、一刻でも捨て置いては、それだけ輪子の毒言が、外の人へ広がる譯なので、母御は直ぐにロンドンの丈夫の許へ、その手文庫の事を云って遣ったが、丈夫は勿論何の為に入用かという事は知らず、単に之が無ければ槙子が不自由するのだろうと合点して、早速道子の家から受け取って送って寄越した。

 その着いたのは翌々日で有ったが、開いて見ると、一点の疑いも無い正真正銘の婚姻證書が出た。母御はその嬉しさに、少し合点の行かなかった所などは打ち忘れた様で、早速自分でそれを持って、輪子の所へ出掛けて行った。之さえ有れば、輪子が再び毒言を吐き散らさない事に成るのは云う迄も無いのだ。

  * * * * * * * * *
 * * * * * * *

 話替わって、輪子は、槙子と丈夫との間に縁談が出来た事を知って以来、怨みを例の風間夫人に移し、たとえ夫人が両個(ふたり)を取り持たなかった迄も、第一此の縁談を妨ぐ事が出来なかったのは、許し難い罪だと云い、第二には我が身を丈夫の妻に周旋するとの約束で此の家へ来ながら、此の様に成ったのは契約違反だと唱えて、夫人を「恩知らずめ」と口続けに罵(ののし)り、終に此の家から退去を命ずると言い渡した。

 こう成っては夫人は必死である。早く博士の妻と為り、輪子の母と云う地位に上ってしまわなければ、立脚地が無くなるのだ。博士が如何に嫌おうが、その様な事は度外に置いて、断然ここで博士と結婚する心を決した。爾(そう)して或る時、輪子に向かい、最早や事を成した様に、嬉しそうに笑み、
 「輪子さん、喜んで下さい。近々愈々(いよい)よ貴女の阿母(おっか)さんと為る事に、話が決まりましたから。」
と出し抜けに荒肝を取った。輪子は目を見張って、
 「それは誰が。」
 夫人「誰とて私に決まって居るじゃ有りませんか。」

 余り言い様が落ち着いて居るので、輪子は疑って、云う事さへ忘れて、
 「エ、阿父(おとう)さんが貴女をを二度目の妻にするんですか。」
 夫人「すればこそ貴女の阿母(おっか)さんに、據所(よんどころ)無く成るので。」
 輪子は絶叫した。

 「可(いけ)ません。可ません。私はロンドンから姉道子を読んで来て。阿父さんへ説諭をして貰います。私の言葉は用いずとも、道子の云う事には阿父さんは何でも従います。道子が何れほど貴女を嫌って居るかは云わずともご存知でしょう。」

 道子を呼ばれては大変だ。決して此の目的は届かなくなる、夫人は思うた。けれど恐れる色は見せない。
 「道子さんを呼ぶのも良いでしょうが、その前に先ずお考え成さい。阿父さんはもう、何しても後妻が無くては成らないと、決心成さったのですから、私が去れば内山夫人か伴野夫人を貴女の阿母さんにするのですよ。アノ様な厳重な、そうして貴女を憎んで居る人へ、貴女は此の家を渡し度いのですか。」

 一言で輪子はグーの音も出ない。唯だ呻くのみである。風間夫人は心から満足して、
 「ですから何事も私に任せてお置き成さい。私しと貴女と不和に成っては此の家の不為です。」
と言い捨てて置いて、そのまま博士の化学室へ歩み入った。そうして年にも恥じず恥じらう体を示して博士に向かい、

 「私もアレから色々と考え、何う貴方にお返事しようかと思案致しましたが、お断わり申すは、今までの長い恩義に背く譯にも当たりますから。」
と何んだか大層重々しそうに言い出した。博士は唯だ呆気に取られ、口を開いて聞いて居る。

 「それに輪子も母無しでは可哀相でありますし、じっくりと思案をしました上で、只今此の通り愈々(いよい)よお返事に。」
 博士「エ、何のお返事に。」

 夫人「アレ先ア厭ですよ。お仮忘れ(とぼ)け成さっては、何ぼ貴方が物忘れがお早いからと云って、人に是非妻に成って呉れと仰有って、私が一週間考えさせて下さいと申し上げて、そうして此の通りお返事に来れば、急に忘れた振りなんか成さって、私はだから冗談もお宜しいが、真面目な話は何うか真面目にお聞き下さい。私も今までは後家を立て通す積りでしたが、外ならぬ貴方の事ですのでーーー」

 博士は遽(あわ)てフタめいて、
 「先(ま)、先、少しお待ちください。ハテな私がその様な事を。爾(そう)、爾、妻に成って呉れなどと貴方に行った事が有りましたかネエ。」
 夫人「アレまあ、アノ様にお仮忘(とぼ)け成さって、此の前の水曜日に、私がここへお手伝いに参ったら、貴方は私の手を捕えて、そう仰有ったでは有りませんか。」

 博士「ハテな、幾等私が物忘れが早くても、その様な事まで忘れる筈は有りませんが、先ア少し考えさせて下さい。」
と云って手を組んで考えた末、
 「アア思い出しました。爾(そう)、爾、爾、爾、すっかり私は忘れて居ましたよ。爾々(そうそう)、確かに思い出しました。決して貴女に縁談など言い込んだ事は有りません。」

 折角思い出しても、言い込まない事を思い出したのでは、夫人に取って何にも成らない。
 思い出して呉れない方が余っぽど好い。



次(本篇)二十七

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